古城探訪

嶽ヶ端城跡付近 山波嶽ケ端城と下見氏 開発によって失われた山城跡も多い、今回紹介する尾道市山波町の嶽ケ端城跡もその一つだ。 この城は、中世高須荘の一部であった山波の丘陵に築かれた山城跡で、現在は開発や造成工事で破壊され、痕跡もとどめていない。…

関屋城址を通る西国往還 街道の関所だった関屋城 中世は、中央集権が崩壊し、徹底的に地方分権化された時代である。 例えば「関所」だ。 古代、関所の設置や停廃は天皇の権能であった。 中世でも変わらない。 京都の七口に置かれた関所の権利は天皇の委任を…

北から見た阿草の城山 戦国の城塞阿草城 戦国真っ只中の備後南部の様子を書き残してくれた記録に、『中書家久公旅日記』というのがある。 天正三年(1575)春、伊勢参宮を思い立った鹿児島の島津家久の旅日記で、備後には同年の3月晦日に尾道に上陸し、4…

柏城跡から見た亀寿山城跡 謎の武将宮氏と亀寿山城 その五 「一本古城記に、宮氏は小野宮左大臣清慎公の末葉にて、品治郡宮内亀寿山城主、是惣領家なり、宮氏所々に散在す。皆、亀寿山城より出て、此に属するものなり」 備後三大郷土史書の一つ『西備名区』…

謎の武将宮氏と亀寿山城 その四 軍記には宮城と出たり…」(『西備名区』)の「軍記」は、前回紹介した『太平記』以外に、『陰徳記』『安西軍策』『吉田物語』『陰徳太平記』など、いわゆる天文3年(1534)の「備後宮城合戦」を記録した一連の毛利氏関係の軍…

亀寿山全景 謎の武将宮氏と亀寿山城 その参 亀寿山城で一番問題になるのは、『西備名区』の言う、「軍記には宮城と出たり…」が、果たして正しいかどうかだ。 軍記とは、『太平記』巻三十八、「諸国宮方蜂起の事」の次の箇所のことだ。 「備後へは富田判官秀…

東の大佐山運動公園より見た亀寿山 謎の武将宮氏と亀寿山城 その弐 亀寿山城で、次に問題になるのは「城名」だ。 近世の文献には、この城のことと考えられる城名が、各書に散見する。『西備名区』は、巻四四品治郡新市村亀寿山城のところに、「或いは亀一山…

対岸の相方城から眺めた亀寿山城跡 謎の武将宮氏と亀寿山城 その壱 備後の山城を語るとき、避けて通れないのは宮氏の存在だ。 『備後古城記』に見える山城だけを取り上げても、上御領の茶臼山、湯野の山王山、徳田の天神山(既出)、中条の井出上、山野の戸屋…

南から見た大町山城跡 畝状竪堀群が見事な大町山城跡 初めてこの城に登った時には、その余りに厳重な「尾首」に驚いた。山城の規模自体は極めて小規模だ。 北から藤井川に突出した尾根を、背後を空掘で劃し、三十メートルほどの曲輪を設け、東に2段の曲輪を…

南東から見た兵庫城跡 藤井川沿いに築かれた古志氏の城塞「兵庫城」 福山から甲山方面への近道として、主要地方道福山尾道線がある。 松永の先から右折して、尾道の三成に出るあの道だ。 道は藤井川沿いに三成に向かうが、このルートは福山周辺でも山城密度…

大内集落から見た大内山城跡 謎の城主皆内氏と大内山城跡 坪生から北に道を取ると、旧神辺町の竹尋地区に入る。中世「高富庄」と呼ばれた地域だ。 現在でも各所に中世的な景観が見られ、山城跡も五箇所ほど残っている。 中でも地区の丁度真ん中に聳える大内…

備後備中の国境にそびえる仁井山城跡 備後備中の国境の城塞「仁井山城」 福山市の東端、坪生町の更に東北の隅に「仁井」の集落がある。旧福山市内でも最後まで古い農村のたたずまいを残していた場所で、私が初めてこの地を訪れた35年前には、「おや、江戸…

北から望む神村城山 怪談「やや(阿良)が火」の舞台、神村城跡 天正の末のことと言う、沼隈郡神村の城主で石井又兵衛という者がいて、側室を「阿良」といった。 この阿良が修験者の松林院とただならぬ中となって、毎夜密会を重ねていた。 ところが二人の関係…

南より見た「坪生要害」清水山 戦国の名将、小早川隆景初陣の場「坪生要害」 足掛け7年に及んだ神辺合戦は、色んな興味深い逸話を残した。 後に豊臣家の五大老にまでなった戦国の名将、小早川隆景の初陣の場所が「坪生要害」であったのもその一つだ。 隆景…

今は陸地の小山となった手城島、「手城」の地名の起源はここにある 福山湾に浮かんだ海の要塞「手城島城」 「天当さん」という懐かしい言葉に引かれて、久しぶりに手城島城跡を訪ねてみた。 多治米から入江大橋を渡って右折、しばらくすると右手にコンクリー…

山頂に王子神社が鎮座するためその名が付いた 毛利元就の八男、元康の築城した王子山城跡 市街地のど真ん中と言う、意外なところにも戦国時代の城塞の跡が残っている。東深津町の王子山城跡だ。 国道を福山駅前から東に向かうと、洋服の青山辺りで、左手にコ…

府中市久佐盆地の東にそびえる朝山二子城

東から見た矢栗城跡、左の山頂斜面に畝状竪堀群がある

典型的な館城である丸山城跡 謎の武将備後桑田氏と丸山城跡 戦国時代の末期から近代にかけて、山南(福山市沼隈町)の桑田一族は地域に大きな影響力を持ち、 多彩な人物を輩出した。横尾の「山南屋」と言えば、戦前「桑田銀行」を持ち、 讃岐電鉄の大株主とし…

真宗の拠点、備後沼隈郡光照寺 森脇山城と光照寺 福山駅前から沼隈方面に30分も車を走らせると、かつての沼隈郡沼隈町(現在は福山市沼隈町)に入る。 途中、分水嶺を二つ越える。まず水呑町洗谷から一山越えて熊野町に入る。そして、熊野の盆地から沼隈町 …

南側から見た中野天神山城跡 尾根道の先端に築かれた戦国山城「中野天神山城跡」 各地を訪ねていると同じ名前の山城に出くわすことがある。中でも多いのは「天神山城」であろう。 福山市内だけでも、神辺町徳田の要害山の別称が「天神山城」、海賊城だが田島…

山内首藤氏が久代宮氏に備えて築城した篠津原雲井城跡遠望 考証「篠津原合戦」 三上郡高郷(庄原市高町)周辺で宮氏の姿が初めて『山内首藤家文書』に現れるのは、年不詳(明応末年と推定) 九月五日付の塩冶氏盛書状に於いてである。この書状は、氏盛が山内…

宮弾正左衛門尉利吉が居城した、備後國奴可郡久代飛田山城跡 久代殿―宮弾正利吉の物語― 東城町の久代に柴橋堂と呼ばれる辻堂がある。久代の中心部宮原から成羽川に 架かる橋を渡った処にある堂で、中に数体の石地蔵がまつられている。 戦国時代、西城東城一…

現在は近田八幡神社境内になっている近田堀の土居城跡 近田堀の土居城と近田宗左衛門 JR福塩線近田駅の西に「堀の土居城」と呼ばれる中世の城館跡がある。比高三十メートル ほどの丘で、頂上に近田の八幡神社が祀られている。城の「曲輪」を利用して神社が…

芦田町本安寺に残る有地氏の石塔 平野の中の小丘に築かれた最小山城「宿久茂塚」 各地の城跡を見てまわっていると、驚くような小規模な山城跡に 出くわすことがある。今まで見た中で、一番規模が小さかったのは、 世羅町堀越の「月山城」だろう。高さ20メ…

謎の国人岡崎一族の居城岩崎城跡 古い記録を眺めるのは面白いものだ。わずか数行の文章か ら色んな仮説、考えが頭に浮かんでくる。 例えば、前回紹介した「泉山城」である。紙面の都合で割 愛したが、『備後古城記』品治郡雨木村泉山城の項、城主宮 常陸介元…

発掘された泉山城跡の曲輪跡 出土した遺物 備後宮氏の拠点の一つ、泉山(せんやま)城跡(福山市駅家町服部) 服部の谷を北に進むと、やがて谷筋が二股に分かれ、蛇円山の黒々とした山塊が前に立ちふさがる。この蛇円山山塊の南端に築かれたのが、福山古墳ロ…

草戸千軒町遺跡の西側にそびえる中山城跡、右の橋は芦田川に架かる草戸大橋 日本のポンペイ【草戸千軒町遺跡】の詰めの城「草戸中山城跡」 草戸大橋の西詰に、高さ50?ほどの小山がある。明王院裏山から南に伸びた尾根の突端で、「鳥越」という切り通しによ…

柏の観音堂山から見た椋山城跡、中央の山頂が平らな山がそれ 巧みに地形を利用した、室町後期の山城「椋山城跡」 福山古墳ロードは、服部大池から近田駅までがAコース、加茂町江木神社までがBコース、北の服部雨木の泉山城跡までがCコースの3コースだ。…

古墳時代の大古墳の上に築かれた小井城跡本丸。切岸から埴輪が出土する。 古墳を利用した中世城館「小井城跡」 去る3月23日、私が会長を務めている備陽史探訪の会が、福山市と協働で整備を進めていた「福山古墳ロード」がめでたく完成した。服部大池の土…