大内集落から見た大内山城跡

謎の城主皆内氏と大内山城跡
坪生から北に道を取ると、旧神辺町の竹尋地区に入る。中世「高富庄」と呼ばれた地域だ。
現在でも各所に中世的な景観が見られ、山城跡も五箇所ほど残っている。
中でも地区の丁度真ん中に聳える大内山城は規模といい、遺構の残り具合といい、庄内の中心的な城だ。
城に登るには、まず竹尋小学校を目指す。東にそびえている山が城跡のある大内山で、城名の起こりとなったと考えられる南麓の「大内」集落から登山道があり、約10分で山頂の城跡に達する。
山頂の本丸は、南北90メートルに達する長大な曲輪で、北部がやや高くなり、ここに後世で言う天守閣に当たる中心的な櫓が建っていたと推定される。
本丸の北から東には巾3メートルほどの「帯曲輪」をめぐらし、南と西南に2段の「腰曲輪」を設け、西側には竪堀で防御された複雑な曲輪があり、ここが城の大手と考えられる。全般的に加工の度合いは低いが、山城の特徴である「切岸」は良好に観察できる。
大内山城跡略測図

『西備名区』によると、この城は一に「大地山」ともいい、家市出雲守景兼が大永の頃(1521〜28)に居住し、後に郷分村に移ったという(以前紹介した青ケ城の項を参照のこと)。
景兼の跡は男の式部大輔、その子の左馬介定兼、定兼の舎弟玄蕃がこの城に居城したと記す。天文から天正年間のことと云う。
しかし、同書の記述ははなはだあいまいだ。定兼は、雲州尼子に属したと記したかと思うと、後に大内に服属し、郷分村より帰住したといい、また、永禄年中(1558〜70)没落して上方に浪人したとも記している。
玄蕃も、天正年中(1573〜92)神辺城主杉原と不和の事が起こって合戦となり、没落して父子共に郷分村に蟄居したとも、父子共に永禄年中に上方に赴いたとも記す。
客観的に見て、家市氏の伝承は信憑性に乏しい。
上下竹田、八尋の在地武士として史料上に確認できるのは、三吉鼓氏と三吉氏だ。両氏とも「三吉」を苗字としているから、同族と考えるのが常識的だが、三吉鼓氏は「佐々木源氏」を称し、三吉氏は「藤原姓」を称しているので、便宜上別けて紹介する。
三吉鼓氏は、南北朝時代に活躍した三吉少納言房覚弁の子孫で、代々「鼓」の地を本拠とし、戦国時代には、鼓又二郎、同右京亮が神辺城主山名理興、同杉原盛重の配下として活躍している。
一方の「藤原姓」三吉氏は、三次市畠敷の比叡尾山城に居城した有力国人三吉氏の一族だ。『萩藩閥閲録』巻一一三草刈六左衛門書出によると、三吉若狭守隆勝は、三吉家一四代隆亮の三男であったが、本家と不和になり、「親類」の杉原盛重を頼り天正十一年(1583)に死去したと伝える。
北から望む大内山城跡

三吉氏と杉原盛重の関係は判然としないが、盛重の配下に三吉氏がいたことは確かで、『備陽六郡志』所収文書に、三吉又左衛門、三吉丹後守の名が見え、神辺城主との関係を伝えている。
両三吉氏の他に庄内梅谷を苗字の地とした梅谷氏の存在も史料で確認出来(三吉鼓家文書)、こうした在地の情勢の中で、家市氏が大内山に拠って、神辺城主に対抗できたとは考えがたい。
三吉鼓氏や梅谷氏のような在地の小土豪か、「藤原姓」三吉氏のように、何らかの縁で神辺城主に仕え、支城(大内山や青ケ城)を任された人物と考えるのが妥当であろう。