銀山城と杉原氏(5)

銀山城と杉原氏(5)
福山市山手町
 伯耆守を官途とした杉原惣領家の活動は室町後期の伯耆左京亮親宗まで確認できる。

 杉原惣領家は時綱の後、光房・直光・満平・光親と続き、歴代幕府に出仕して、将軍の近習、儀式の際の衛府侍などを勤めた。親宗はおそらく光親の子で、宝徳二年(一四五〇)七月、将軍義政の参内に衛府侍として従ったことが当時の記録(康冨記)に見え、康正二年(一四五六)、杉原本庄の段銭五貫文を幕府に納めている(康正二年造内裏段銭並国役引付)。

杉原惣領家の居城、府中八尾山城址
 親宗の代までは杉原惣領家は健在で、銀山城も惣領家の支配下にあったと推定される。惣領家の居城は府中八尾山城であったと伝えられるから、銀山城にはその代官、あるいは常興寺大仏殿を再興した民部丞親光の後裔が拠っていたものと思われる。
『備後古城記』の記載が正しいとすると、伯耆守に次いで記載された備前守が親光の裔であろう。

 銀山城主が惣領家の系統から為平の裔である匡信の系統に変わった理由は、惣領家の没落、或いは断絶に因があると考えられる。

 先に述べたように惣領家では親宗までは幕府での活動が確認されるが、京都での記録は明応二年(一四九三)で途切れる。在地での活動も文明末年の太郎左衛門尉盛平で絶える。おそらく応仁文明の乱から明応の政変にかけての動乱の中で所領を維持できずに没落の道をたどったのであろう。

 為平の裔が銀山城に拠ることが出来たのは、同家が惣領家と極めて近い関係にあったためである。その証拠は次の文書(県史本文所収杉原文書)である。

 (花押)「将軍足利義持
備後國木梨庄地頭織半分、伊多岐社地頭職半分、大田庄地頭職内倉敷尾道浦半分田畠屋敷、杉原保内知行分残郷地頭職半分、並びに福田浜田事、当知行の旨に任せ、杉原文(ママ、おそらくは又の誤り)太郎光貞同じく一族など領掌相違あるべからずの状件の如し
応永三十年十二月二三日

 これは、為平の曾孫であり、匡信の父と伝えられる杉原光貞の家督相続に際して出された将軍義持の御判御教書だが、注目したいのは為平系の伝えた所領の中に「杉原保内知行分残郷地頭職半分」があることである。

 杉原保は言うまでもなく、杉原氏の名字の地であり本領であった現福山市本庄町から丸之内にかけての地域である。その一部がこれによって為平の系統に伝領されていたことが判明する。

 為平の系統が銀山城に本拠を移すに至った過程は二通り考えられる。

 惣領家の断絶によって養子縁組、或いは将軍家の承認によりその跡を継承したする場合と、惣領家の衰退により、実力でその領地を占拠し銀山城主に成り上がったとする、二つの考えである。

 今いずれが正しいかは即断は避けたいが、匡信の孫に当たる盛重が将軍から直接御内書を受けていることから、惣領家の断絶によって為平の裔がその跡目を継承したと考える方が良さそうである。(田口義之「新びんご今昔物語」)