銀山城と杉原氏(4)

銀山城と杉原氏(4)
福山市山手町

 『備後古城記』に山手村銀山城主として出てくる杉原伯耆守の「伯耆守」は、備後杉原氏にとって容易ならぬ受領名である。

 杉原氏は、桓武平氏の出で、三重流平氏の光平が鎌倉幕府に出仕して御家人となり「杉原」苗字の始祖となった。その光平の受領名が「伯耆守」であった。木下和司氏の研究によれば、光平は京都の下級官人であったが宗尊親王にしたがって鎌倉に下り、親王が将軍となると共に幕府の御家人となった。そして、光平は備後国杉原保の地頭職を拝領し、「杉原氏」の始祖となった。以後、杉原惣領家では家督を継ぐと「伯耆守」に任官するのが家例となり、室町後期に及んでいる。

 もし、『備後古城記』の記載が正しい伝えとするとどうなるか、銀山城は「杉原氏の惣領家の居城であった」ということになり、後に為平の裔がこの城に拠った理由を説明しなければならない。

本丸に残る石垣
 前回までに銀山城の縄張りは、八尾山城や鷲尾山城などの杉原氏の山城と強い関連性が認められると述べた。しかも、惣領家の居城と伝える府中の八尾山城は芦田川中流の屈曲部に築かれているのに対し、銀山城は河口を見下ろす位置を占めている。両城を押さえることで、杉原氏は芦田川の水運と流域の物流を押さえることが出来たはずだ。

 最近になって杉原氏の苗字の地「杉原保」が銀山城下から芦田川を挟んで東南に位置する福山市の本庄町から丸之内の一帯であることが明らかになった(胎蔵寺釈迦如来坐像「胎内文書」)。

 現在の芦田川は中津原で大きく湾曲し、郷分辺りから、東南に一直線に河口に向かって流れている。中世は違った。今でも水路や地下水脈でその名残が見られるが、本来の芦田川は中津原から神辺の川南、千田町辺りまで氾濫原とし、西南に流れ、山手津之郷町の境のあたりで更に東南に向きを変え、今の駅前の辺りに河口を開けていた。

 すなわち、銀山城が機能していた時代、杉原保の中心本庄は城下の近く、山手町の東部辺りまで広がっていたのである(このことは山手橋北の「北本庄河床遺跡」から中世の農村の遺構が出土したことから確認できる)。

 このことは何を意味しているのか、銀山城が杉原氏惣領家によって築かれ利用されていたことを示していよう。

 銀山城の始築年代は、南北朝期にさかのぼりうる可能性がある。この度発見された「胎蔵寺釈迦如来胎内文書」によれば、この釈迦如来は貞和三年(1347)、杉原親光が自分を育ててくれた祖母の菩提を弔うために建立した常興寺大仏殿の本尊として造立されたとある。親光は『尊卑分脈』に杉原惣領家五代時綱の次男として出てくる人物である。同胎内文書には、別に親光は父と離れて備後杉原保で成長したとあり、或いは、この人物あたりがはじめて銀山城を築いたとしても良いかも知れない。(田口義之「新びんご今昔物語」)