備後備中の国境にそびえる仁井山城跡

備後備中の国境の城塞「仁井山城」
福山市の東端、坪生町の更に東北の隅に「仁井」の集落がある。旧福山市内でも最後まで古い農村のたたずまいを残していた場所で、私が初めてこの地を訪れた35年前には、「おや、江戸時代の村にタイムスリップしたのかな…」と感じるほどのどかな場所であった。
この仁井の集落の背後に「仁井山城」と呼ばれる中世の山城跡がある。
城は北から南に突き出た尾根を二重の空堀で断ち切り、二段の曲輪を築いただけの極めて簡単な構造である。
城跡に登るには、山麓の「伝大名墓」の看板のあるところから道なりに山頂を目指し、中腹から右に道を取れば空堀跡に達する。
ここから南に行けば本丸だ。
かつては、仁井の集落を睥睨していたであろうこの城も、雑木が生い茂って、山頂からの眺望は望めない。
地元の「坪生郷土史研究会」の皆さんが城跡を整備する計画があると聞くので、城跡の探索は整備後が良さそうだ。
城の立地、構造を見ると、仁井山城には二つの性格がありそうである。
一つは、在地の小土豪の居城としてのそれだ。
西の麓には「仁井氏の墓」と称される一群の五輪塔が残り、形式から室町・戦国期のものと考えられる。
確かにこの地を「一所懸命の地」とした在地武士がいたのだ。
もう一つは、備中方面から坪生に入る街道を監視する城としての役目だ。
坪生は備後南部の要衝の一つで、備中からと神辺方面からの道がここで出会い、さらに沿岸部へと続いていく。
室町時代、この地は備後守護代太田垣氏の支配するところとなったが、それは守護権力にとって重要な場所であったからだ。
応仁の乱で東軍に味方した備後守護山名是豊は備後制圧を狙って、まず坪生に入り、ここから草土・鞆へと軍を進めているのは、この地の重要性を良く示している。
室町時代、備後守護代太田垣氏の「請地」であったことは、坪生の戦国史に微妙な影響を与えた。
守護の強力な支配が及んだため、有力な国人領主が育たなかったのだ。
このことは坪生の在地武士とされる、仁井氏、神原氏、坪生氏の伝承を見ると良くわかる。
仁井氏は、太郎吉近、次郎吉清、四郎惟清、三郎惟信と四代に渡って仁井山城に居城したと伝えるが、独立した豪族ではなく、備中笠岡の陶山氏の家臣で、文明年中(1469〜87)に滅亡したと云う。
神原氏は、仁井山城主、或いは坪生の西端に残る西山城主と伝える在地武士で、大内氏に仕え、伯耆守助宗、采女正助春、和泉守、四郎頼景と四代相続し、頼景の代、享禄年中(1528〜32)に没落したという。
仁井氏、神原氏が伝承上の存在なのに対し、坪生氏は実在の豪族だ。
坪生の産土寒森神社の天文六年(1537)の棟札に「陶山又次郎、坪生武高」とあり、備中の大豪族陶山氏の一族であった。
更に永禄六年(1563)の再興棟札には「小早川□□隆景、坪生兵部丞藤原乗高」とあって、小早川氏配下の部将として神社の再建に当たったことがわかる。
このように、伝承と残された記録から見ても在地の豪族は陶山、大内、小早川と言った大勢力に属して、その興亡に左右されながら乱世を生き延びようとしたことがわかる。その生きた証が、残された山城跡であった。