銀山城と杉原氏(7)
福山市山手町
 為平の裔である山手杉原氏の系図は、現在2種のものが伝わっている。

 出典は明らかでないが、『沼隈郡志』の人物誌、領主所収杉原氏系図では、為平の系統は元平の子から山手と八尾の二つの家に別れ、弟の康平から、豊後守康盛を経て匡信に至るのが銀山城主で、兄元康は府中八尾城に拠り、時興を経て理興(神辺城主山名宮内少輔)に至るとする。

城址に残る礎石
 もう一本は、山手杉原氏の直系と称する萩藩家中杉原与三右衛門家の伝えた系図で、それによると、為平の後は、伯耆守光胤、修理亮光恒、右衛門尉光貞と続き、光貞の子が山手銀山城に移った匡信であるとする。

 一般には、萩藩杉原与三右衛門家に伝えた系図が正しいとされるが、『沼隈郡志』所収の系図も、康平、康盛に実在の徽証があり(水野記など)、捨てがたいものがある。この2種の系図の存在は、前回述べた仮説、惣領家の遺跡を為平系の杉原氏が継承したとすれば理解しやすい。すなわち、郡誌の言う元平から康盛に至る人々が惣領家の系統で、匡信は為平の系統からこの家に養子として入ったとすればいいのである。

 銀山城主として次に問題になるのは、最も名高く、後に神辺城主となって備後南部の盟主となった播磨守盛重の出自である。

 『沼隈郡誌』の杉原系図では、盛重は匡信の子で、父に次いで銀山城主になったとする。一方、萩藩杉原与三右衛門家の系図では、匡信から盛重への家督の相続は話がやや込み入っている。同家の系図では匡信と盛重の間に「豊後守理興」が入り、さらに、盛重には兵庫頭直良という兄がいて、盛重はこの病弱な兄の名代として戦功を現し、神辺城主に取り立てられたという。

 匡信と盛重の間に一代置くのは、年代と残された史料から見て頷けるものである。ただし、この豊後守を「理興」とし、神辺城主となって「山名宮内少輔理興」と名乗ったとする通説は頷けない。木下和司氏の最近の研究(備後の大永〜天文年間前期の戦国史を見直す『山城志』20集など)によると、杉原与三右衛門家の系図、特に豊後守理興の部分は、江戸中期にかけて発刊された『陰徳太平記』などの軍記物語に影響して作為された可能性が高いという。『陰徳太平記』なども、神辺城主として杉原盛重が高名であったことから、さかのぼって理興も「杉原」氏としたことが推測され、その根拠はないという。筆者も木下氏の考えに同意するもので、匡信と盛重の間に「杉原豊後守」が存在したことは認めてよいと思われるが、その実名が「理興」であったとは到底考えられない。豊後守を「理興」としたのは後世の書き入れであろう。盛重に兄がいて、その名代として頭角を現したとする伝えも裏付けるものがない。

 木下氏の言うように、杉原豊後守が山名理興の跡をついで神辺城主となり、さらにその没後、盛重がその跡目を継承して神辺城主となったとするべきであろう。その場合、盛重に兄がいたとしてもなんら不思議ではなく、盛重は山手杉原氏の庶流(萩藩杉原与三右衛門家)から家を継ぎ、銀山城主から神辺城主となったとすればいいのである。(田口義之「新びんご今昔物語」)