銀山城と杉原氏(6)
福山市山手町
 為平の裔である播磨守匡信が山手銀山城に移ったのは大永年間(一五二一〜一五二七)のことと推定される。

 この時期の備後は、戦国の様相が一段と深まった時代であった。備後守護職相伝した山名氏は本拠を但馬国に置き、備後には守護代を派遣したのみであったから、国人の下剋上周辺諸国からの侵略に耐え切れず、没落の一途をたどっていた。

 匡信が山手に本拠を移したのはこうした中であった。理由ははっきりとは分からない。が、当時の備後南部の情勢が深く関わっていたことは間違いない。永正から大永にかけて、この地域を牛耳っていたのは守護山名氏から備後守護代職に補任されたこともある山内直通と、将軍奉公衆の系譜を引き、備後両宮と畏怖された宮実信と同政盛であった。

 当時、守護の力が衰えた国では国人が盟約を結び、地域の秩序を維持しようとした。備後では備北の山内氏、和智氏、備後南部では宮氏、渋川氏がその地位にあった。

 永正の末年から大永年間にかけて、備後は大きな危機を迎えていた。周防の大内氏と結んでいた守護山名氏が、尼子氏の圧迫に抗し切れず、尼子方に転じたのである。在地に大きな動揺が走った。こうした中で、宮実信などの国人のボスは、守護の一族を備後に迎えて自分たちの旗頭にし、尼子氏に対抗しようとした(木下和司「備後の大永〜天文年間前期の戦国史を見直す」)。

 国人衆の盟主として迎えられたのが山名理興であった。理興の出自ははっきりとはしないが、「宮内少輔」という山名氏にとって由緒のある官途を称していることから山名惣領家の出身であろうという(木下氏前掲論文)。これが所謂「神辺和談」(『閥閲録』遺漏4―2宮実信書状)であった。

 神辺和談は、理興を府中八尾城に迎え、さらに神辺城に入れるという2段階の手順を踏んで行われた可能性が高い(理興は八尾から神辺へ移ったという古い伝承があるからだ)。

 この「神辺和談」で、国人衆の給地の入れ替えが、かなり大規模に行われた形跡がある(前掲宮実信書状など)。この時、匡信が木梨の家城から山手の銀山城に移ったのではなかろうか。

 かなり想像が入ってしまうが、その理由の一つは、銀山城の杉原氏が神辺城主山名理興の宿老の地位を占めていたことだ。匡信の子と推定される豊後守は「神辺杉原豊後守」と称されていた(浦家文書)。また、銀山城主として明確に現れる播磨守盛重は理興の「四番家老」であったという。

 為平の裔である播磨守匡信は、「神辺和談」に際し、山名理興の神辺城を支える国人衆の一人として、神辺城西南の要地に位置する銀山城に入り、その西南の要となったのであろう。

 銀山城が本格的に修築されたのもこの頃で、一族で八尾城に入ったと考えられる杉原興勝と共に神辺城の支城となり、そのため、今日のような類似の城郭遺構を残すこととなったものと推定される。(田口義之「新びんご今昔物語」)