銀山城と杉原氏(7) 福山市山手町 為平の裔である山手杉原氏の系図は、現在2種のものが伝わっている。 出典は明らかでないが、『沼隈郡志』の人物誌、領主所収杉原氏系図では、為平の系統は元平の子から山手と八尾の二つの家に別れ、弟の康平から、豊後守…

銀山城と杉原氏(6) 福山市山手町 為平の裔である播磨守匡信が山手銀山城に移ったのは大永年間(一五二一〜一五二七)のことと推定される。 この時期の備後は、戦国の様相が一段と深まった時代であった。備後守護職を相伝した山名氏は本拠を但馬国に置き、…

銀山城と杉原氏(5)

銀山城と杉原氏(5) 福山市山手町 伯耆守を官途とした杉原惣領家の活動は室町後期の伯耆左京亮親宗まで確認できる。 杉原惣領家は時綱の後、光房・直光・満平・光親と続き、歴代幕府に出仕して、将軍の近習、儀式の際の衛府侍などを勤めた。親宗はおそらく…

銀山城と杉原氏(4)

銀山城と杉原氏(4) 福山市山手町 『備後古城記』に山手村銀山城主として出てくる杉原伯耆守の「伯耆守」は、備後杉原氏にとって容易ならぬ受領名である。 杉原氏は、桓武平氏の出で、三重流平氏の光平が鎌倉幕府に出仕して御家人となり「杉原」苗字の始祖…

銀山城と杉原氏(3)

銀山城と杉原氏(3) 福山市山手町 銀山城跡の特色は、杉原氏系の縄張りの特徴と、戦国末期の山城の特徴を良く残していることである。 杉原氏系の山城の特徴は、南北方向に形成された主曲輪群に対して、直角に副曲輪群が構築され、その曲輪群の北側に「削り…

銀山城と杉原氏(2)

銀山城と杉原氏(2) 福山市山手町 銀山城跡を訪ねるには、先ず津之郷町の「弘法の水」を目指す。福山駅前から国道2号線に入り、神島橋西詰で右折、土手道を1キロほど進み、山手橋西の交差点を左折、突き当たりを右折、突き当たった県道が旧西国街道で、…

山手銀山城と杉原氏

銀山城と杉原氏 福山市山手町 私の山城歩きは中学3年頃から始まったが、今から思うと福山地方の代表的な山城に最初の一歩を印したのはこの頃のことで、幸か不幸かこのことがその後の私の運命を決めたようである。 福山市内の代表的な山城の一つ、山手町の銀…

謎の山城、木之上城址(6)

謎の山城、木之上城址(6) 神辺町三谷・東中条 山頂の東南、いわゆる「もと城」地区から西南に伸びる尾根上に構築された曲輪、堀切、井戸跡は中世山城の遺構と見て間違いない。 「もと城」は本丸を意味する地名であろう。ここは標高320?の山頂から東南…

謎の山城、木之上城址(5)

謎の山城、木之上城址(5) 福山市神辺町東中条・三谷 木之上城跡の北の山頂から東南にかけての一帯が古代山城の遺跡である蓋然性は高い。尾根上の土塁や望楼跡などは中世山城には見られない。古代山岳仏教の聖地となったらしいことも、他の古代山城の例か…

謎の山城、木之上城址(4)

謎の山城、木之上城址(4) 神辺町東中条・三谷 稜線上の土塁と望楼、謎の石列、確かに古代山城の匂いがぷんぷんと漂ってくる木之上城だが、これを『続日本紀』に出て来る「茨城」に比定するには、やや躊躇を感じる。 城址に残る石垣 豊元国氏以来、茨城は…

謎の山城、木之上城址(3)

謎の山城、木之上城址(3) 神辺町西中条 標高320?の山頂から20?下がったところにある古瓦出土地は古代の山岳仏教の遺跡であることは間違いない。平安時代に古代の国造の子孫安那氏がこの山上に伽藍を建てたという説があり(日本城郭全集・神辺町史)…

謎の山城、木之上城址(2)

謎の山城、木之上城址(2) 神辺町東中条・三谷 井笠バス中条行きの終点池の坊バス停(当時)で下車した一行は、北にそびえる木之上山を目指して歩いていった。池を回ったあたりから視界は次第に狭まり、道は山道となった。 登り口は簡単に見つかった。地元…

謎の山城、木之上城址(一) 神辺町東中条・三谷 神辺町から加茂町にかけては、旧備後国の時代、安那郡と呼ばれた地域である。安那は後に「ヤスナ」と発音されるようになったが、本来の読みは「アナ」で古く大和朝廷の時代に置かれた「吉備穴国」にちなむ由…

江良土居城と行延城 福山市駅家町 近世の諸書に記録された中世の伝承で興味深いのは岡崎義實に関する伝えである。 岡崎氏は、相模三浦氏の一族で鎌倉幕府草創の御家人として権勢があったが、「和田義盛の乱(一二一三)」で義盛に味方して滅亡した。 備後で…

山王山城と宮氏 神辺町湯野 東西に拡がった神辺平野は、東から三分の一辺りに東西千五百?、南北二千?ほどの独立した丘陵があり、東の御領から高やに続く回廊状の平野を分断している。標高百?に満たないこの山塊は真ん中が南北にくびれ東西に主峰を持っている…

中条城郭群

中条城郭群 神辺町東・西中条 神辺の中条は、新市の柏と並んで、小さな山城跡が密集し、「城郭群」として捉えることができる地域である。 城郭群の存在するのは、前に紹介した宮氏の居城今大山城から中条の谷を挟んで向かい合う東西一km、南北一、五kmの…

湯野城の内と中条土居屋敷 神辺町湯野・東中条 戦国時代、戦乱が日常的になると共に山城は発達し、城主は恒常的に山上で生活するようになった。各地の山城で、慶長5年(1600)の関が原合戦まで使用された城に、築山の名残が見られるのはそのためだ。 だ…

御領堀館跡

御領堀館跡 神辺町上御領 神辺町の御領地区には、もう一ヶ所注目される城館遺跡が存在する。御領堀館跡がそれだ。 福山方面から国道313号線を井原方面に行き、神辺町の「上御領」交差点を右折し、県道189号線を南に6百?進んだあたりの右側が館跡であ…

下山城と滝山城

下山城と滝山城 神辺町上御領 神辺町の東部、御領地区には前回紹介した竜王石山城跡以外に、あと二つの中世山城跡が残っている。下山城と滝山城がそれだ。 下山城跡は、竜王石山城から平野を挟んで丁度真南にそびえる山で、標高120?、大字八尋との間に東…

竜王石山城跡と重政氏 神辺平野の東北部から、井原市の高屋町に至る回廊状の平野沿いには、前回紹介した下御領の茶臼山城跡のほかに、城跡と伝わる場所が3ヵ所ほど知られている。 一つは、茶臼山から東へ2キロ、同じ御領山山塊の一角を占めた竜王石山城跡…

茶臼山城跡と菊池氏

茶臼山城跡と菊池氏 山名理興の時代、神辺城主の勢力は備中西南部に及んでいた。井原市芳井町芳井の土豪藤井能登入道皓玄は理興の家老であったし、理興の跡目を継いだ杉原盛重は同町河相の土豪河相氏と被官関係を結んでいる(備中川合文書)。 当然、藤井氏の…

要害山城跡の価値

要害山城跡の価値 繰り返しになるが、要害山城跡は「奇跡」の一語に尽きる。 記録から見て、この城は天文一七年(1548)に築かれ、翌年の九月には放棄された。県内1千ヵ所に及ぶ中世山城の中で、これほど残された遺構の年代がはっきり分かる例はない。 多…

要害山城と平賀隆宗

要害山城と平賀隆宗 40年近く山城跡を歩いていると、印象に残った山城と、ほとんど忘れてしまった山城がある。 強烈な印象が残っているのは、やはり初めて山城というものに出会った山城跡だ。 記憶をたどってみると、私がはじめて戦国時代の山城に登ったの…

備後宮氏の一族

備後宮氏の一族 備後の豪族の中で、宮氏ほどなぞとロマンに満ちた者はない。南北朝時代、彗星のごとく史上に登場したかと思うと、たちまちのうちに備中国守護職を拝領、鎌倉以来の山内須藤、和知江田の広沢衆と肩を並べる国人衆となった。だが、その全貌は歴…

*[古城探訪]風雲の神辺城 山名理興の登場(その3) 確実な史料から見て、山名理興は、天文元年(一五三一)神辺城城主となり、備後安那・深津両郡を支配した。 とすると、問題になるのは、従来の「通説」との関係だ。 『福山市史』は理興の出自について、次…

風雲の神辺城(2)

風雲の神辺城 山名理興の登場(その二) 室町時代、国内の鋳物師職の任命権を持っていたのは守護であった。天文元年(一五三一)十二月の時点で理興が備後守護の職権を行使していたのは間違いない。 神辺城址本丸跡 天文元年、理興が山名家の家督を相続して…

風雲の神辺城 山名理興の登場 全盛期の神辺城には、山城部分だけでなく、麓の平地部分にも城郭が築かれていたようだ。江戸時代の地誌には、現天別豊姫神社境内東側に「杉原屋敷」と呼ばれた城主の居館があったと伝え、神辺の街中にも「外堀」の跡があり、埋…

神辺、謎の古城山

神辺、謎の古城山 神辺宿の散策は楽しいものだ。古い町並の散策は電車かバスを利用するのがいい。車で行ったのでは味わえない趣がある。 JR福沿線に乗って10分、電車は神辺駅に着く。駅前通りは50?ほどで車両の往来激しい国道313号線に出る。ここで…

梅谷城と三吉筑前守

中世「高富庄」と呼ばれた、神辺町上下竹田、八尋地域には、今まで紹介した大内山城、明顕山城、鼓ヶ岡城のほかに少なくとも二箇所の城跡が知られている。下竹田の梅谷城と、八尋の和名木城だ。 この内、中世山城の遺構が良好に保存されているのは和名木城で…

鼓ヶ岡城と三吉覚弁 神辺町東部の上下竹田から八尋にかけての一帯は、中世「高富庄」と呼ばれる荘園であった。荘園領主は判然としない。 典型的な「谷田」地帯で、櫛の歯のように開けた小さな谷あいには、大抵奥まったところに溜池があり、谷の出口にかけて…