竜王石山城跡と重政氏

 神辺平野の東北部から、井原市の高屋町に至る回廊状の平野沿いには、前回紹介した下御領の茶臼山城跡のほかに、城跡と伝わる場所が3ヵ所ほど知られている。

 一つは、茶臼山から東へ2キロ、同じ御領山山塊の一角を占めた竜王石山城跡だ。

 御領山の最高所、標高234?の「八畳岩」から南に派生した尾根を空堀で断ち切り、2・3の曲輪を築いただけの簡単な山城で、南北朝時代に重政氏が居城し、戦国期には目崎氏の城となったという。

 国道313号線を井原方面に向かい、国分寺を過ぎたあたりから「八畳岩登山口」の標識に注意する。案内板に沿って左折すると山道に入る。最初のS字カーブの右に大きく湾曲したあたりの、南側の尾根が城跡だ。高校時代、はじめてこの城を訪れた頃は、まだこの辺りは「松茸狩り」の名所で、山中のあちこちに松茸狩りで使う仮屋が点在していた。城跡の本丸もそうした場所のひとつで、雑木雑草は無く、誰もが一目見て城跡と分かる状況であった(現在は雑木に覆われて足を踏み入れるのも難しい状況である)。

 城主重政氏は、平氏の末葉と伝える土豪で、元弘の変(1331)では、平左衛門尉光康がこの城に拠って後醍醐天皇に味方し、兵を挙げた。

 重政氏の挙兵は、史実としてある程度頷けられる伝承である。茶臼山城のところでも少し触れたが、現在の大字御領はかつて「安那東条」と呼ばれた地域で、室町時代前期には、「岡崎門跡」、すなわち、天台宗寺門派実相院門跡の荘園であった。実相院門跡はいわゆる「宮門跡」で、歴代法親王が入院した。「御領」の地名は、こうした皇室ゆかりの領主から生まれたものである。当然、在地豪族の中には守護地頭を嫌い、直接皇室と結ぼうとした者もいた。そうした在地武士の一人が重政光康であった。

 重政氏の挙兵は、自らが棟梁と仰いだ桜山四郎入道の自決によって失敗に終わったが、その後も土豪として隠然たる勢力を持っていた。『備陽六郡志』に面白い話を伝えている。

 杉原盛重が神辺城主だったころのことと言う。湯野城の内に鳥居兵庫という武士が住んでいた。兵庫は下御領の向湯野から湯野にかけて二十貫ほどの領地を持っていた。兵庫は青年になって上御領の重政氏から妻を迎えた。舅の重政氏は湯野あたりが毎年旱で苦しんでいることを知ってか、引き出物として一夏に三日三夜づつ用水を与えることを約束した。いつの頃からか水は二日二夜になったが、これを「湯野の引手の水」という(外編安那郡湯野村の条)。

 用水を支配することは土地の支配に通ずる。中世の土豪が如何にして地域を支配したのかを知ることが出来る、興味深い逸話だ。
 目崎氏は、元々駅家町服部の土豪で、宍戸氏の代官としてこの城に入ったという。宍戸氏がこの地を支配したのは、神辺城主杉原氏が滅んだ後であるから、目崎氏の入城も天正年間の後半(1591頃)のこととなる。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)