下山城と滝山城

下山城と滝山城  神辺町上御領
 神辺町の東部、御領地区には前回紹介した竜王石山城跡以外に、あと二つの中世山城跡が残っている。下山城と滝山城がそれだ。

 下山城跡は、竜王石山城から平野を挟んで丁度真南にそびえる山で、標高120?、大字八尋との間に東西に延びた丘陵の頂部に存在する戦国時代の砦跡である。ただし、県の報告書には「遺構不明」とある。以前登った時の感想では、山頂から山麓にかけては、畑や果樹園として開墾され、広い平坦地は存在するものの、明確な「切岸」は見当たらないようである。これが県の調査員が「遺構不明」と報告した理由だが、立地から見て、この山を山城として利用しない方が不自然なくらい、良い場所を占めている。

 神辺平野の東部から備中の小田川流域に通ずる回廊状の平野は、下山城の西麓で二股に分かれる。その南は中世「高富庄」と呼ばれた上下竹田の豊かな穀倉地帯だ。このような地理的に重要な場所に山城が築かれないということはありえない。現在山頂部に明確な遺構が存在しないのは、開墾などによって破壊されたか、地形を最大限に利用した臨時的な城砦であったためであろう。

 下山城跡から東に2キロ、備後備中の国境にそびえるのが古来城跡として有名な滝山城跡である。

 この城跡は、下山城のある丘陵の一部、御領から備中高屋に通ずる平野が国境で一番狭まったところに北面して築かれた山城で、下山城と違い、山頂から北に一段下がったところに明確な曲輪跡を残している。

 この城を有名にしたのは、江戸時代の元禄年間(1688〜1703)、毛利、尼子の軍記物語『陰徳太平記』が刊行され、その巻一八に「備後外郡志川滝山落城の事」として、志川滝山合戦が紹介されたためだ。志川滝山合戦とは、この連載でもたびたび取り上げてきたが、毛利氏が宮氏の籠る加茂町北山の志川滝山城を攻略した戦いである。現在では、この合戦は、加茂町北山の内、字四川に残る(正確には字滝)滝山城跡がその舞台であることは自明のこととして紹介されているが、当時の人はそうは思わなかった。まず、「外郡」が理解できない。また、この書物が広く流布した江戸時代後期、加茂町の北山は備後福山領ではなく、豊前中津領であった。支配が違えば全く別の国だ。こうして、滝山と言えば上御領の滝山と即断され、宮入道の立て籠もった「備後外郡志川滝山城」はこの備後備中の国境にそびえる滝山城跡ということになった。

 明治維新後、近代的な歴史学が導入され、大日本史料などの一級史料が公開されるとともに、志川滝山合戦の舞台は加茂町北山の滝山城跡であることが明らかになったが、宮入道の居城であったという説は今でも根強く信じられている。中には、宮入道は加茂町北山の滝山城で敗れた後、御領の滝山城に拠って再び抗戦し、再度敗れて備中に敗走したという説を唱えた郷土史家もいる。室町時代の記録から「安那東条」と呼ばれたこの地に宮氏が侵略を繰り返したことは事実だが、この城を戦国時代の志川滝山合戦に関連付けるのは余りにも「我田引水」が過ぎると言わねばならない。(田口義之「新びんご今昔物語」)