御領堀館跡

御領堀館跡
神辺町上御領

 神辺町の御領地区には、もう一ヶ所注目される城館遺跡が存在する。御領堀館跡がそれだ。

 福山方面から国道313号線を井原方面に行き、神辺町の「上御領」交差点を右折し、県道189号線を南に6百?進んだあたりの右側が館跡である。

 現地に行ってみると、地表にはわずかに土塁の痕跡と認められる土盛があるだけだが、館跡の様子は地割りに明瞭に残っている。

 県道に接して平行して約90?延びた幅10?程の細長い畑が土塁の跡で、南東から直角に90?延びてさらに直角に西北に20?延びている。その外側は県道の東から、南を土塁跡を取り巻くように、幅20?ほどの長方形の水田がめぐっている。堀の跡だ。堀の跡は西側にもきれいに残っている。内側は80?四方の水田が広がっている。館跡の西北には薬師堂と呼ばれる小さなお堂が残っている。屋敷神の名残だろう。まさに見事に残された中世武士の居館跡だ。

 この館跡はごく最近まで人知れず残っていた。最初にこの館跡に注目したのは、昭和49年に行われた神辺郷土史研究会による遺跡調査によってである。同会は調査の結果を「神辺の歴史と文化」展で発表し、館跡の存在が明らかになった。以後研究者の注目するところとなり、各種の書物で紹介されるようになった(備陽史探訪の会刊『続山城探訪』など)。

 気になるのは、この館が「いつ」「誰」によって築かれ、何時まで存続したかである。

 残念ながら館跡に関する伝承は何も残っていない。現地に残された館跡と周辺の中世遺跡から推定するしかない。

 館跡の現状は「方一丁」の方形居館で、これは中世の地頭庄官クラスの在地領主の居館としては平均的な規模である。航空写真や古い地形図を見ても、周辺に同じような居館跡はないようである。

 単独で存在するところを見ると中世でも鎌倉期にさかのぼるような古い時期のものである可能性がある。方形居館は、中世前期に在地領主の館として現れるが、時代が下るにつれて複雑に変化し、また居館の主の成長に伴って、周囲に同規模ややや小さめの方形居館を随えて、いわゆる「平城」に発展していく。現状では、御領の堀館跡にこのような在地領主の成長の跡をたどれるような痕跡は認められない。

 居館と山城を一つのセットと見る考え方からすると、周辺に存在した山城の居館として存在した可能性も考えられる。
 この地に近い山城跡は、東方約1キロの滝山城跡と西南7百?に存在する下山城跡だが、それらの山城の「根小屋」と考えるには、堀館はやや離れすぎているように思える。

 やはり、中世前期に単独で存在した在地の庄官クラスの居館跡と見た方がいいだろう。地元に居館主の伝承が残っていないのもそのためだ。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)