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湯野城の内と中条土居屋敷
神辺町湯野・東中条
戦国時代、戦乱が日常的になると共に山城は発達し、城主は恒常的に山上で生活するようになった。各地の山城で、慶長5年(1600)の関が原合戦まで使用された城に、築山の名残が見られるのはそのためだ。
だが、平地の居館が放棄されたわけではない。生活に便利な平地の居館もそのまま使用され、「土居」という地名を各地に残している。
以前にも紹介したが、「土居」は「土塁」のことで、転じて土塁をめぐらした豪族の居館をさす言葉となった。
土居屋敷は「方形居館」とも呼ばれ、平安末期以来の伝統を引き継ぐもので、守護や有力国人クラスで「方一丁」すなわち、一辺百?前後が目安で、以下居館主の勢力と格式によって差があった。草戸千軒町遺跡でも室町後期の土居が発掘されており、一辺約90メートルのそれは、守護山名氏に関連する屋敷跡と考えられている。
これらの土居の跡は多く集落に近い山麓や平野の微高地に設けられたため、その姿をとどめたものは少ないが、神辺町内には前に紹介した御領の「堀館」以外、少なくとも2箇所が地上に痕跡を止めていた。
一つは、御領の竜王石山城のところで少し触れた湯野の鳥井氏の居館跡、「城の内」である。
城の内居館跡は、国道486号線が同313号線と合流する少し前を左折し、県道御領新市線にぶつかる少し手前の、堂々川の土手下の一角で、周囲に住宅が建て込みつつあるが、土塁の痕跡と思われる高まりと古墓が残り、かすかにそれと知ることが出来る。
居館の主鳥井氏は、神辺城主杉原氏に仕えた在地武士と伝わり、湯野から御領にかけて給地を与えられていたという(備陽六郡志)。私が最後に訪ねたのは3年前だが、今でも往時の面影を残していることを期待したい。
宮上野介家の本拠であった西中条の今大山城下にも見事な土居の跡が残っていた。「中条土居屋敷」がそれだ。
そこは今大山城跡の本丸から東北に6百?程はなれたところにある東面した山麓で現在も屋敷地として使われている。
前面は切り立った崖となり、背後は高さ3?の土塁が2重に屋敷地をコの字状に囲み、土塁と土塁の間は深い空堀となり、背後の山続きにはさらに一重の空堀が巡らされている。初めてこの土居屋敷の跡を訪ねた時は、その見事な土塁に圧倒されたものである。
この土居屋敷が今大山城主宮氏の居館跡と即断するのはやや早計である。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集に収録された図面を見ると、平面は一辺五〇?弱の正方形で、宮氏クラスの有力国人の居館とするにはやや規模が劣るようである。今大山城の居館は南麓の護国寺周辺に求めた方が良い。
それにしても、この見事な土居の遺構が失われて今は見れないのは返す返すも残念なことである。
何故この福山地方ではまれな、見事な中世武士の居館跡が調査もされずに破壊されてしまったのか、当時の文化財関係者の猛省を促したい。(新びんご今昔物語より)