銀山城と杉原氏(3)

銀山城と杉原氏(3)
福山市山手町

 銀山城跡の特色は、杉原氏系の縄張りの特徴と、戦国末期の山城の特徴を良く残していることである。

 杉原氏系の山城の特徴は、南北方向に形成された主曲輪群に対して、直角に副曲輪群が構築され、その曲輪群の北側に「削り残し」の土塁が見られることである。杉原惣領家の居城とされる府中の八尾山城跡、木梨杉原氏の鷲尾山城跡は銀山城とほぼ同じ縄張りで、鷲尾山のみが主曲輪群から西に曲輪群が構築され、削り残しの土塁もこの部分に残っている。

 地形に制約される中世の山城で、これだけ同じ縄張りが見られるのは珍しいことで、それだけこの三城には強い関連性があったとしなければならない。

銀山城址に残る石垣
 また、さすがに福山地方の戦国を代表する山城だけに見るべき遺構が多い。まず、石垣が周辺の山城の中では飛びぬけて立派なことである。石垣は東側の曲輪群の南面に築かれ、高さは最大で二?に達する。石垣は備後地方の山城では左程珍しいものではない。が、それらの石垣は、ほとんどが「土留め」の石垣で、高さ一?前後に過ぎず、「裏込め」はない。それに対して、銀山城の石垣はある程度裏込めが認められ、比較的大きな石材を用いている。築かれた場所も、大手道が城壁に取り付いたところで、往時は城を訪ねた者に威圧感を与えた筈である。

 こうした石垣は、戦国末期の天正年間に入らなければ築かれない。銀山城がこの時代になっても修築を繰り返したことを物語っている。

 また、大手道が主曲輪群南端に取り付いたところに見られる「外枡形」の遺構もこの城が戦国末期になっても使用されていたことを示している。外枡形は、虎口の外側に四角い空間を設け、虎口と直角にもう一つの城門を設けたものである。銀山城の場合、三の曲輪の東の面に虎口が開き、その外が一段低く枡形が設けられ、その北面に東の曲輪群南面を通ってきた大手道が取り付いている。立派な枡形と言える。

 こうした枡形は近世城郭では普通に見られるものだが、中世の城跡では見られない。織田、豊臣の城郭(いわゆる織豊城郭)で急速に発達したものだ。これも銀山城が相当後まで使用されていたことの証拠である。

 城主としては杉原氏が知られている。一般に、銀山城は尾道市木梨の家城にいた、為平の後裔である杉原播磨守匡信が、家城から山手の銀山城に本拠を移し、以後播磨守盛重まで「山手杉原氏」の本拠として使われたと説明される。盛重がこの城に居城したのは事実と考えられるから、さかのぼって匡信が木梨からこの城に居城を移したのもまた事実であろう。菩提寺の山手三宝寺の再興が大永年間(一五二一〜一五二七)と伝わっているから、ほぼ大永年間のことと考えられる。

 それでは銀山城が匡信によって築かれたのかと言うと、ことはそう簡単ではない。『備後古城記』は銀山城主として、最初に杉原伯耆守、同備前守を挙げ、次に播磨守盛重を挙げている。匡信の受領名は播磨守であり、伯耆守、備前守は匡信ではない。古城記を信じると、銀山城は匡信以前に築城され、杉原氏の居城となっていた、としなければならない。(田口義之「新びんご今昔物語」)