山王山城と宮氏
神辺町湯野
 東西に拡がった神辺平野は、東から三分の一辺りに東西千五百?、南北二千?ほどの独立した丘陵があり、東の御領から高やに続く回廊状の平野を分断している。標高百?に満たないこの山塊は真ん中が南北にくびれ東西に主峰を持っている。西が以前に紹介した要害山城跡のある茶臼山、東の山頂が現在日枝神社の鎮座する山王山で、此処もまた戦国時代に城砦として利用された場所であった。
 
 福山から国道一八二号線を北に進み、一九軒屋北交差点を右折して国道四八六号線に入り、湯野交差点を左折すると東西の山塊の間を走る県道に入る。峠を越えた辺りに「豊久保公会堂」があり、そこを右折、道なりに登れば日枝神社の鎮座する「山王山公園」にいたる。

 山頂部は南北二百?ほどの平坦地で南半分が日枝神社の境内地、北半分が公園となっている。城跡の遺構は今はほとんど見られない。強いてあげれば日枝神社の境内地の西の境界がかつての土塁の名残であろうか、その西下にかろうじて空掘の痕跡と考えられるくぼみがある。

 この地は福山の生んだ偉大な郷土史家得能正通の出世地でもあり、氏の号「虎睡山」は山王山城の別名虎睡山城から取ったものである。

 正通は慶応三年(一八六七)十月二十五日、山王山の西麓豊久保に父徳永高次郎、母満佐子の次男として生まれ、幼少より学を好み、十八歳にして「湯野村誌」の著作がある。正通は同書の中で山王山城について、次のように述べている。

「虎睡山城址(一に山王山城)ハ村ノ中央虎睡山ノ北端ニアリ天文年中宮次郎左衛門景則此地ニ城郭ヲ築キ舎弟宮若狭守ト共ニ数十年間居城シ後竟ニ之ヲ毀チ城墟ノ踪跡湮滅セリ
城内古宅跡ハ村ノ東方字九反田ニアリ天文ノ頃鳥居兵庫頭之ニ居ル」

 つまり、城跡は今の山頂北部の公園一帯に存在したが、今は湮滅して跡は残っていないという。なお、別名の虎睡山は、同書によると、「恰モ虎獣ノ睡眠セル」形容によるという。

 宮次郎左衛門、同若狭守は近世の地誌類で湯野から中条、山野にかけての山城主として書き上げられている人物で、今大山城の所で考証したように、中世備後最大の豪族であった宮氏の一方の旗頭宮上野介家の人々である。「湯野村誌」では次郎左衛門景則、舎弟若狭守としているが、若狭守、次いで(舎弟かどうかは分からないが)次郎左衛門とするのが正しい。『西備名区』は若狭守を「秀景」、次郎左衛門を「景盛」とし、「景則」を景盛の子とする。また次郎左衛門を「道景」とする記録もあって、字中陣には道景神社が鎮座するという。

 近世の諸伝は山王山城の宮氏は神辺城主杉原氏と戦って負け、討死したと伝えるが誤伝であろう。もし正しいとすると、宮氏は神辺合戦後も存続し、杉原盛重が神辺城主となった後に滅亡したこととなり、宮氏は神辺合戦の最中に滅亡したという『毛利家文書』などの諸記録と合致しなくなる。(田口義之「新びんご今昔物語」より)