江良土居城と行延城
福山市駅家町

 近世の諸書に記録された中世の伝承で興味深いのは岡崎義實に関する伝えである。

 岡崎氏は、相模三浦氏の一族で鎌倉幕府草創の御家人として権勢があったが、「和田義盛の乱(一二一三)」で義盛に味方して滅亡した。

 備後ではこの義実の子孫が追っ手を逃れて沼隈郡草深にやってきて土着、品治郡江良の城主となったと伝えている。
 この備後岡崎一族を盛大に導いたのは、南北朝時代に活躍した与市太郎忠計だという。忠計は足利尊氏の九州下向に従い、多々良浜の合戦で大功を立て、延元元年(一三三六)、尊氏より石成庄を拝領して一族で分かち領したという。これが以前近田堀の土居城や中島の石崎城(いずれも駅家町)のところでも紹介した岡崎一族の伝承である。

 これら岡崎氏の城跡と伝える場所は、丘陵に位置する近田の堀の土居城と石崎城のほかは明確な遺跡を残していない。

 岡崎一族の中で、惣領家であったのは江良(駅家町)の土居城に拠った江良氏であるらしい。江良氏は『西備名区』によると、岡崎義実の孫と伝える忠実が沼隈郡草深に土着、さらに品治郡江良に移って土居城を築き、その孫に尊氏から石成庄を拝領した忠計が現れるのである。但し、その城跡は判然としない。服部大池から芦田川にそそぐ服部川周辺の地形図を見ると、右岸一帯に自然堤防が発達していることから、この自然堤防上に営まれた平地の居館であったと推定される。

 行延城は上河原城ともいい、浄土真宗明泉寺一帯がその遺跡で、境内に城主倉光氏一族の墓石と伝わる古拙な五輪石塔が残っている。ここも服部川右岸に形成された自然堤防状の微高地にあり、神辺平野が芦田川の本流沿いではなく、支流沿いの微高地から開発された様子が良く分かる立地である。

 度々云うように、これら岡崎氏の伝承を証明するような史料は一切残されていない。却って岡崎氏以外が石成庄を領有していたとする史料は比較的豊富に残されている。

 石成庄が誰によって如何なる経過で荘園となったかは明らかでないが、南北朝時代には荘園領主は京都の天竜寺、地頭は長井氏や宮氏の名が史料で確認される。

 嵯峨天竜寺領となったのは、庄内の東半分を占めた「石成上村」で至徳四年(一三八九)同庄の年貢二四〇貫余が同寺の納められている(天竜寺文書)。西方の江良、近田を含む一帯は「石成下村」と称され、その地頭職は長井氏が持っていたが宮氏の侵略を受け、室町時代の応永一五年(一四〇八)には宮氏の有力な一族宮次郎右衛門尉氏兼の領するところとなっていた。下村はまた地頭と領家で下地中分が行われたらしく、領家分は将軍家の料所から守護山名氏の請地となり、応仁の乱の頃には山名氏から庄原の山内氏に「乗馬給分」として与えられている。

 だが、岡崎氏の一族とされる江良、倉光、中島、近田氏などが実在したのは事実である(堀の土居城の項を参照)。問題は彼らが如何なる経緯をたどってこの地域に土着したか、である。(田口義之「新びんご今昔物語」)