謎の山城、木之上城址(一)
神辺町東中条・三谷
 神辺町から加茂町にかけては、旧備後国の時代、安那郡と呼ばれた地域である。安那は後に「ヤスナ」と発音されるようになったが、本来の読みは「アナ」で古く大和朝廷の時代に置かれた「吉備穴国」にちなむ由緒ある郡名である。奈良時代になって南部が「深津郡」として分離し、さらに明治時代、この両郡が合併して馴染み深い「深安郡」となった。

 「中条」はこの安那郡のほぼ中心を占めた古くから栄えたところである。平安時代になって律令制度が緩んでくると、国は地域を分割して租税を徴収しようとした。その徴収を請け負ったのが「在庁官人」と呼ばれた在地の有力者で、彼らの縄張りが「条」とか「郷」、或いは後の「荘園」となった。中条は、地域を東西に3分割したことを示す地名で、安那郡の場合、中条を中心にして「東条」「西条」の三つの地域に区分され、それぞれにボスがいたことになる。

木之上城址遠望
 中でも中条は注目される地域である。中世後期、宮氏が今大山城に拠って備後に覇を唱えたことは既に述べたが、中条谷の北部にあたる「木之内」から大字「三谷」にかけてそびえる標高329メートルの山頂一帯にも大規模な山城の遺跡が残り、ここに一大勢力者が存在したことを教えてくれる。古来、神辺城と並んで有名であった「木之上城」がそれだ。

 木之上城は、わが備陽史探訪の会にとっても大変縁の深い中世山城の一つだ。

 備陽史探訪の会が始まった頃、我々の関心は備後南部に存在したという古代山城、「常城」と「茨城」に向けられていた。中でもその所在が不明とされていた茨城の探索は会員を夢中にさせた。蔵王山をはじめ、各地を探索したが、その一つと目されたのが木之上城であった。

 我々が木之上城に注目したのは、その地名「木之上」の「読み」にあった。中世以来、「城」は「シロ」或いは「ジョウ」と呼んでいるが、古代はそうではなかった。「キ」と読んでいたのである。古代の山城は岡山県の鬼城、山口県の石城山が有名だが、いずれも「キ」の城、石「キ」山と呼んで「キ」が含まれている。備後の常城、茨城も「ツネキ」「イバラキ」と城を「キ」と読む。

 茨城の探索は、従来の推定地と、地名を探索することからはじまった。福山市街地の東北にそびえる蔵王山がその推定地と目されていたが、何度登ってもそれらしい痕跡はない。すると、友人の金尾君から聞いていた「木之上城」の名が私の頭をよぎった。「木之上」の「木」は古代山城の「城(キ)では…。早速国土地理院の5万分の1地形図「井原」を開いてみると、城跡のある山の麓に字「木之内」があるではないか。この「木」も「城」の「キ」に違いない。

 備陽史探訪の会が発足して2年目の2月14日、我々は古代山城「茨城」を探索すべく、寒風の中、木之上城を目指して、福山駅前をバスで出発した。これがその後深いかかわりを持つこととなった、木之上城と私の最初の出会いであった。

 以前この連載で、「木之上城と金尾氏」という題でこの城を取り上げたことがあるが、語り足りない点があったので、稿を改めて紹介させていただく、ご了解いただきたい。(田口義之「新びんご今昔物語」)