謎の山城、木之上城址(2)

謎の山城、木之上城址(2)
神辺町東中条・三谷

 井笠バス中条行きの終点池の坊バス停(当時)で下車した一行は、北にそびえる木之上山を目指して歩いていった。池を回ったあたりから視界は次第に狭まり、道は山道となった。

 登り口は簡単に見つかった。地元の方が立てられた「木之上城址登り口」の看板があり、そこからは右上に登山道が延びていた(今も看板はあるはずだ)。

 登り口のすぐ上で我々は最初の発見をした。登山道の左に建つ小さな神社の右手を見ると、何と鎌倉時代にさかのぼるような「層塔」の残欠があるではないか…(後にこの層塔は山頂近くにあったものが谷に落ち、地元の方が拾って此処に建てたものと判明)。

 道は幅1?ほどもあり、登りやすいものであった(後に拡張整備され一時は軽トラックが通れるようになった)。山上には20分足らずで到着した。周囲を観察すると、一番北の山頂から、東から東南に稜線が馬蹄形にめぐり、登山道はこの馬蹄形の真ん中の谷あいから稜線に取り付いていた。


古瓦出土地

 先ず最初に山頂の南側にあるという古瓦出土地を目指した。「木之上城からはかわらが出るんど…」という、あれである。事前に場所を聞いていたので、古瓦出土地は簡単に見つかった。そこは標高320?の山頂から南に20?ほど下ったところで、150坪ほどの平地で、礎石が整然と並んでいる。歩き回ってみると所々に盗掘口らしき、堀荒らされた跡があり、古瓦が転がっている。手にとって見ると古代から鎌倉時代の瓦に見られる「布目」が付いている。また、建物は火災にあったようで、瓦や礎石に火を受けたような痕跡が見られた。

 ここから我々は、山頂から東南からに延びた稜線を一巡した。事前に調査でこの山は別名「五台山」と呼ばれ、五つの山頂があると聞いていたが、登ってみると確かに五つのピークがあり、しかもそれぞれ平に加工された痕跡があった。

 一番北の山頂こそ平坦地はなく、すぐ南に幅5?ほどの曲輪跡と思われる平地があるのみだが、それも良く見ると背後の山頂稜線が東西30?の土塁となっている。

 山頂から東南に位置するピークは「鐘撞堂」と呼ばれ、一面に礎石が残っている。さらにその南には「もと城」と呼ばれる逆「く」の字形の平坦地があり、「く」の字の折れた部分は一段高くなり、ここにも礎石が残っていた。ここにはさらに古墳の残骸のような石組みが残り、我々の興味を誘った。

 稜線はここから西南に伸び、中世山城の曲輪跡と考えられる数段の平坦地を経て、城内最大の平地である「馬場」に達した。そして、ここで我々は今まで見たこともないような奇妙な遺構に出くわした。平坦地の北面切岸から2?ほど内側に10?程延びた「列石」を発見したのだ。これは一体何のための列石か…。

 馬場跡の西南はさらに一段高くなり「御殿丸」と呼ばれる平坦地があり、一面礎石が並んでいる。南を望むと山並みを隔てて神辺平野は一望の下だ。一体全体、「誰が」「何のために」にこのような巨大な山城を築いたのか…。参加した会員の誰もが感じた疑問であった。(田口義之「新びんご今昔物語」)