正面から見た鳥の奥城

鳥の奥城と有地氏
鳥の奥城は「殿奥城」とも書く。福山の中心部から車で約30分、芦田川の土手をさかのぼり、石原トンネルを出たところで左折、高規格道路に入り動物園を過ぎた最初の信号を左折し、約1キロで城の麓に到着する。
中国バス「天満バス停」のある三叉路に立ち、南を見上げると、激しく抉られた岩山が迫ってくる、大谷城跡だ。
左に目を転じると小山越しに平らな山頂の山が見える。
これが、有地氏が最初に居城とした鳥の奥城だ。
北西の山麓に「山方会館」という地元の集会所がある。
ここに車を置いて、登山に挑戦するのが良いだろう。余談だが、この集会所は福山通運の創業者として有名な故渋谷昇氏の生家跡に建っている。渋谷昇は、この地に生まれ、初め土建業、後には運送業・不動産業として成功した。
渋谷昇生家跡の碑

傍らに立つ記念碑によると、この集会所は同氏が敷地共に地元に寄付されたものという。
集会所の前の道を登って行くと「殿奥池」の土手に出る。さらに進むと、左手に手すりの付いた山道がある。
城跡に行くには、先ずこの道に入り、途中から南の稜線を目指す。
手すりの付いた山道をそのまま登ると、山頂に小さな社がある。
よく観察すると、社殿の建つところと北と南に一段下がったところに平坦地がある。
曲輪の跡だ。
「市迫城」という。
市迫城址

各種の郷土史書に独立した山城として紹介されているが、到底独立した山城とは言いがたい。
鳥の奥城の北の出丸といったところだ。
私がこの城跡に初めて登ったのは、平成6年(1994)の2月20日のことだ。
翌年が備陽史探訪の会の創立15周年にあたるため、記念誌として「山城探訪」を発刊することとなり、その調査で訪れたのである。
訪ねる前、私はこの城に対して懐疑的であった。
大谷城は既に踏査済みで、大谷城から眼下に俯瞰される鳥の奥城は、存在したとしても大谷城の出城で、大した遺構は残っていまいと思っていた。
その日、会のメンバー10人と共にこの城に登った私は、目を疑った。
出城どころではない、山頂の主曲輪群の周りには、大谷城跡以上の厳重な「畝状竪堀群」があるではないか…。
城の構造は、東から西に伸びた稜線の山頂を2段に削平して本丸・二の丸とし、東西を掘り切って城域としただけの簡単なものだが、周囲の堀切や竪堀群は「見事」の一語に尽きる。
「竪堀」は数えてみると、北斜面に34条、南斜面に11条穿たれている。
規模は幅3メートル、長さ15メートルのものがほとんどだが、場所によっては「畝」状に並び、上端が繋がって「横堀」状になっている。
おそらく、城兵はこの横掘状の部分に身を潜め、登って来る敵兵を弓・鉄砲で狙い撃ちしたのであろう。
東西の堀切も3重に設けられた見事なものだ。
このように、鳥の奥城は、「土造り」の城としては、最高のレベルに達した山城である。
問題は、有地氏が「なぜ」こんな堅固な城を必要としたか、だ。