北から見た別所城址

別所城と三谷氏
福山の西郊瀬戸町に「別所」という地名がある。
福山の駅前から国道2号線を広島方面に向かい、バイパスに入る手前の「岩足橋」交差点で左折、突き当りを右に行き、五百メートルほど行った所で右折する。
ちょっとややこしいが瀬戸から熊野に行く道を瀬戸池の手前で西の谷あいを目指せばよい。
正式には、瀬戸町大字地頭分字別所で、芦田川の支流瀬戸川流域の一番西南奥まったところにある小さな谷である。
「別所」は大きな寺院の支院が置かれた所、あるいは新しく開発された土地を意味する地名で、瀬戸町の別所の場合、地形から見て新しく開発された土地を意味する地名に違いない。
土豪三谷氏の居城として知られる別所城跡は、この谷の南東奥まったところに所在する。
山頂本丸に小さな社が存在し、その参道を登れば10分ほどで登ることが出来る。
城は、「根小屋」式山城の典型的なものだ。根小屋式山城は室町時代の比較的古い形の山城で、山頂の「詰城」部分と山麓の「土居」の部分の二つに分かれている。
城主は平時「土居」に居住し、一朝有事に山頂の「詰城」に立て籠もる。
別所城の場合、参道が尾根の稜線に取り付く左手の部分が土居に当たる。
登ってみると上下2段に削平された広い平坦地で、土豪の居館としては十分な面積を持っている。
山頂の詰城は、土居から50メートルほど登ったところにある。
周囲は切り立った斜面で、なるほど守るには絶好の地形である。
山頂は3段に分れ、小祠や石碑が立っている。先年地元の公民館主宰の史跡めぐりで登った時、高校生の頃にこの城跡に来た時のことを思い出し、「確か城門の礎石らしきものがあったはずだが…」と探してみたが、それらしいものは見当たらなかった。
城主三谷氏は、この地域の古い土豪だ。瀬戸町一帯は中世の「長和庄」の故地で開発は古い。
三谷氏の素性に関しては諸説がある。「西備名区」沼隈郡地頭分村別所城の項は錯綜している。
同書は別所城主として、三谷豊前守直義、同豊前守直重を挙げ、「豊前守は山名宮内少輔末葉」「又一本。杉原盛重舎弟」
「又一本。当村福成寺の伝えには、延文元年将軍尊氏卿に従う」「又一本に、豊前守は山名家より出て三谷郡に住す、よって氏とす」
「又一本に、三谷氏は杉原盛重の舎弟、安那郡三谷村に住して以て氏とす」
これでは、どの伝えが真実を伝えたものかさっぱり分らないが、どうやら銀山城の杉原氏(盛重)との関連は事実らしい。
関が原合戦後、浪人した三谷一族の中には毛利氏に従って長州萩に移った者もいて、系図を伝えている(萩藩閥閲録142)。それによると、銀山城主杉原播磨守匡信の次男光重が三谷を称し、その子重信のところに「備州長和城主」とある。
別所城跡の山頂本丸に立ち、北を眺めると、頂を平らにした銀山城跡をはっきりと確認することが出来る。
戦国時代、銀山城主杉原氏が付近一帯を支配していた頃、別所城は銀山城の支城として機能し、杉原氏の一族が三谷氏の名跡を継承したのは事実だろう。
だが、三谷氏の歴史はもっと古い。
「渡辺先祖覚書」によると、「草土」に土着した渡辺高の子、福成寺の「納屋」は「三谷腹」とあり、高が備後に来た室町初期には、既に三谷氏はこの地域の土豪であった。
おそらく本来は安那郡三谷村(福山市神辺町)を名字の地とした在地武士で、後に杉原氏から養子を迎えることで乱世を生き抜こうとしたのであろう。
現在でも「三谷」は瀬戸町一帯の著名な名字の一つである。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)