火打峠の辻堂

鳥の奥城と有地氏(2)
鳥の奥、大谷九の平といった要害を構えて有地郷の領主となった有地氏だが、その前途は多難であった。
有地氏がこの地に入ったのは16世紀前半のことと考えられるが、既に周囲には、古志、福田、楢崎などの国人領主がひしめき、覇を競っていた。
有地氏が頭角を現すには、彼らとの競争に勝ち抜かねばならない。
さらに、衰えたとは言え、宮氏の惣領家も健在だった。
有地谷から南に山一つ越えた新庄本郷(福山市本郷町)には古志氏が居て、有地氏と対抗関係にあったと言われている。
松永の郷土史家藤井高一郎氏が面白い伝説を採録されている。
横内の景観

伝説の場所は大谷城下から西に入った上有地字三斗木から南に山越えしたところにある「横内」という集落だ。
横内は地理的に見ると、本来尾道市の原田町か福山市の本郷町の一部でなければならない。
ところが、現在の行政区分では福山市芦田町に含まれる。
なぜそうなったのか…。言い伝えでは、「横内」は昔古志領(すなわち本郷分)であったが、「有地の殿さん」と「古志の殿様」が合戦をして、古志の殿様が負けて取られてしまった。
付近に「勝負田」という場所があり、「勝田」という田圃が有地氏の陣で、「負け田」の田圃は古志の殿様の本陣であったと伝えている(藤井高一郎「新庄本郷古志氏の城砦について」文化財ふくやま第14号)。
有地氏と古志氏が争ったのは事実である。しかも非は有地氏にあったらしい。
年不詳毛利元就同隆元連署書状
「態々啓せしめ候 古志・有地論所の儀 早々手を放つべき由 有地に対して速やかに申し付け相定め候 然る間一両日中此方より人を相副え差し遣わし候て彼の在所受けとり、古志へ渡すべく候…」(閥閲録一〇八)
元就は続けて「使者を以て申すべく候と雖も一切別条無く候間 書状を以て申し入れ候」と述べているから、誰の目から見ても「非」は有地氏にあったらしい。
古志氏との争いは、その後も尾を引いた。
天正十九年(1591)、古志氏は毛利氏によって領地を没収され滅亡するが、一説によれば、それは有地氏の「讒言」によると言い、古志氏最後の当主清左衛門豊長の首を打ち落としたのも有地氏であったという。
「古志清左衛門豊長 
 毛利家に属して所々に於いて軍功あり。勇壮にして身の丈7尺2寸、力普通を越えたり。天正のはじめ謀反の聞こえあり、芸州吉田へ召し寄せられ、有地民部少輔元盛、井上又右衛門春忠に命ぜられ、酒宴の席にて誅せらる。豊長首打落とされなから、体立ち上がり、太刀抜き放せしという」(西備名区)
「一所懸命」の地に賭けた、中世武士の執念が伝わって来るような凄まじい逸話である。