大谷城跡本丸を望む

大谷城と有地隆信(3)
大谷城や次に紹介する鳥の奥城、市迫城に関する郷土史書の記述は錯綜している。
「西備名区」芦田郡下有地村の条は、これらの山城について、次のように述べている。

「大谷山、米迫城
 有地石見守清元
  宮城を出て初めこの城に住す。然る処妖怪有て人多く失いける故、国竹に城を移すと云う
 同 次郎左衛門尉景宗
 清元に従って宮城を出、共にこの所に来たり、清元居を移すの跡に留まりて妖怪を鎮め、永く居住す」
「殿奥城 一に鳥の奥に作る
 有地石見守清元
 天文年中、国竹より城を遷すという
 同 美作守隆信
 清元嫡男。一本古城記に民部丞隆信、弘治年中住居という(下略)」
「大谷九の平城
 有地美作守隆信
 鳥の奥の出城として住せしという
 同 
次郎左衛門尉景信
 隆信に代わって此城主となると言う」
「市迫城
 有地美作守元盛
 一本古城記に。弘治年中、福田治部少輔を討って此に移り住すという」

この記述を信じると、芦田町の大字下有地には大谷山米迫城、鳥の奥城、大谷九の平城、市迫城の四つの城跡が存在するはずだ。
事実、この四城跡が存在するとして記述を進めている郷土史書もある。
実際はどうなのか。参考になるのは、郷土史界の大先輩高田雄信さん(故人)が「備後史談」第1巻第1号(大正十四年一月発行)に寄稿された「有地氏の五城跡に就いて」だ。
高田氏は、この論文の中で、鳥の奥城に関して、「鳥の奥は、北半面が字鳥の奥で南半面が字米ケ迫に属するので米が迫城の名もある」と述べておられる。
高田さんは芦田の東隣駅家町大橋の方だから地名に詳しい筈。要するに鳥の奥城と大谷米が迫城は同じ城を指し、下有地には大谷九の平・鳥の奥・市迫城の三城があったとするのが正しい。
これは私が実際に調査した結果と同じだ。
大谷米が迫城と鳥の奥城が同じ城とすると、有地清元は鳥の奥城と国竹城を本拠とし、次の隆信の代に大谷城(九の平)築いたとするのが本来の伝承であったろう。
鳥の奥城

有地氏の本拠が鳥の奥・国竹から大谷城に移ったと言う伝承は、現地に残る遺跡からも頷ける。
以前に紹介したように、国竹城は平時の居館跡である。有地氏は、この地に入ると共に由諸ある国竹城に入り、更に有事に備えて鳥の奥城を築いたのであろう。平地の居館と山城のセットは室町時代に普通に見られた光景だ。
鳥の奥城の高さは麓から100メートル、この地に土着したばかりの有地氏にとっては精一杯の規模であろう。
大谷城は、この弱小豪族の有地氏が勢力の拡大と共に新たに築いた城と見える。
鳥の奥を本拠とした清元にとって、大谷九の平の山頂は喉から手が出るほど欲しい「要害」だった。
何となれば、大谷の山頂から鳥の奥城内の様子は手に取るように見えるからだ。
だが、土着間もない有地氏にはその余裕はなかった。
この意味で、大谷城が隆信の代に、鳥の奥城の出城として築かれたとする「西備名区」の記載は正しいと言える。