北麓のから眺めた大谷城跡

大谷城と有地隆信(続き)
私が初めてこの城を訪ねたのは、昭和55年11月24日のことであった。
なぜ、30年近い昔のことが月日までわかるかと言うと、生まれたばかりの備陽史探訪の会の第2回目の「例会」で訪ねたからだ。
会の創立記念日は、この年の9月だから、産まれたてのほやほやで、実はその名称も決まっていなかった(会の名前が備陽史探訪の会に決まったのはこの年の暮のことだ)。
その日、私たちは、メンバーの乗用車で芦田町に向かった。
最初前々回に紹介した国竹城跡を訪ね、昼前に大谷城跡に登った。
真正面からは登れない、採石場となって、切り立った絶壁は人を寄せ付けない。
やむなく、東側に回って池の土手際から城跡を目指した。
当時既に山は荒れていた。
かろうじて残っていた山道を息を切らしながら登ると、10分ほどで最初の曲輪跡に到達した。
さらに登ると、土塁に囲まれた曲輪に出くわした。
そこから人工的に急傾斜にした斜面(城郭用語で「切岸」と呼ぶ)を一気に駆け上ると山頂広場、本丸となっていた。
標高262メートルの山頂には古びた祠と拝殿が建ち、北を見下ろすと、目もくらむような絶壁だ(この神社はまだあるだろうか…)。
この城で注目されたのは、本丸の構造と、土塁で囲まれた曲輪の存在であった。
特に注目されるのは本丸が東西二つに分かれていることだ。
山頂主曲輪の様子、手前と向こうに本丸がある

普通、山城の本丸(主曲輪)は一つと決まっている。
それはそうであろう、本丸が二分されていると、守備力が分散され、城の防御能力が低下する。
地形によって(例えば山頂が二つあるとか)、主曲輪が二つあるという例はままある。
だが、大谷城の場合は意図的に本丸を二分しているとしか考えられない。地形から見て、本来山頂は一つだったはずだ。
では、なぜ本丸をこのような形状にしたのか…。
考えられるのは、これが宮氏独特の築城術ではないかということだ。
実は、宮氏が築城し、居城したと伝えられる山城には、この「本丸が二つある」城が多く見られるのだ。
新市の亀寿山城、相方城は共に本丸主曲輪が東西に並立する。
宮氏最後の拠点加茂町の志川滝山城も鞍部を挟んで東西に曲輪群が築かれている。
宮氏の惣領筋の一つ宮上野介家の居城と推定される神辺町中条の遍照山城の本丸も南北二つの曲輪で構成されている。
しかも、遍照山の場合も意図的に本丸を二分したように見える。
宮氏に独特の築城術があったとする仮説は大いに考えられることだ。
戦国時代、各地の戦国大名は競って堅固な山城を築いた。
そして、それらの山城には大名ごとに特徴があった。
甲斐武田氏の「丸馬出し」、相模北条氏の「障子堀」などだ。
宮氏は甲斐武田氏や相模北条氏には劣るが、室町時代には幕府奉公衆として栄華を極め、備後を代表する国人として「備後殿」と称された家である。
独特の築城術を伝えていたとしても不思議はない。
土塁で囲まれた曲輪

土塁で囲まれた曲輪の存在は謎である。
一説に城の用水を貯めた「池」の跡ではないかと言われるが、土蔵や櫓の跡の可能性もある。
その後明らかになったことだが、この城には山頂の曲輪群を囲むようにびっしりと「畝状竪堀群」が設けられている。
これらのことから、大谷城跡は福山を代表する山城遺跡の一つであることは間違いない。
残念なことは、この山城遺跡の白眉とも言うべき城跡が現在破壊の危機に曝されていることだ。
採石場によって山の北半分は既に消滅した。何とかこの貴重な遺跡を後世に伝える手段はないであろうか。