大谷城と有地隆信
戦国時代、福山市芦田町一帯に大きな勢力を持った有地氏は、謎を秘めた一族だ。第一に、素性がはっきりしない。
一般に信じられているのは、「相方城主有地殿先祖覚」などで流布している説だ(福山志料・西備名区も大同小異)。
有地氏の初代、石見守清元は新市亀寿山城主宮氏の出であったが、兄弟不和で亀寿山城を出て、有地村に居住した。
文三年(1534)の事という。
次いで清元の嫡子隆信の代になると、西隣福田(芦田町福田)利鎌山城の福田氏を討ち、城を大谷九の平に移した。さらに隆信の子元盛の代になると勢いますます振るい、府中市中須町から駅家町近田まで切り取って城を相方に移した。
これが総石垣の山城として有名な相方城である。
有地氏が宮氏の一門であることは、元盛が「宮之元盛」と銘に刻ませていることから事実であろう。
だが、その先代とされる隆信に関しては、解決しなければならない課題は多い。
先ず、ほぼ同世代と考えられる「宮若狭守隆信」と「有地隆信」の関係だ。
宮若狭守隆信は、「水野記」に、安那郡中条周辺の領主として見える人物で、天文十七年(1547)には、同郡道上の浄光寺に田畠一町二反を寄進している。
今まで有地氏に関する研究では、若狭守隆信と有地隆信は別人と見られて来たが、両人の「隆」は大内義隆の一字を拝領したものだ。
活躍した地域・時代が一致することから、同一人物と考えた方が良い。
萩藩有地氏の系図に元盛の官途を「若狭守」とするのもこの説の補強になろう。
武家社会では、名前の一字や通称・官途名を世襲するのが通例だからだ。
有地氏に関する見方をこのように広く捉えると、既出の史料も別な解釈が可能だ。
例えば、「毛利家文書」三〇七号大内義隆書状(推定天文十七年)に出てくる、大内氏によって「要害」を攻め落とされた「宮次郎左衛門尉」だ。
今までこの人物は、室町初期に活躍した「宮次郎右衛門尉氏兼」の子孫と推定され、その「要害」も神辺町徳田の天神山か御幸の正戸山と考えられてきた。
だが、有地氏を芦田町という狭い範囲で考えるのではなく、備後南部と言う広い視野で捉えると、別の解釈が可能だ。伝承の有地一族で、隆信の弟に「有地次郎左衛門尉景信」という人物がいる。
彼こそ、義隆書状の「宮次郎左衛門尉」ではないのか。景信は「玄蕃」とも称し、実在の人物だ。
もし、この解釈が正しいとするならば、生きて来る資料がある。萩藩家中の有地氏系譜だ。
今までこの系譜は誤りが多いとして、回顧見られることは少なかった。
ただ、宮元盛が天文三年(1534)毛利氏に降った、という箇所だけは、どういう訳か多くの毛利氏概説書に取られていた。
「毛利家文書」の「宮次郎左衛門尉」を有地氏に比定して良いとなると、有地氏と毛利氏の合戦は、天文三年ではなく、天文十七年に行われたことになり(義隆の花押からそのように推定できる)、備南戦国史と残された史跡を解釈しやすくなる。
今まで「天文三年の宮城合戦」は、備後戦国史の喉に突き刺さった「とげ」であった。芸備地方や中国地方の政治史の中で、「天文三年」毛利氏が遠く備後南部に兵を出すなど考えがたいことであった。
しかし、一四年後の天文十七年ならば十分ありえる話だ。
そして、隆信が築城し、景信が居城したという大谷城のおぞましいまでの要害堅固さも、毛利氏の攻撃に備えるためであったとすれば理解できる。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)