山内城と山内氏 福山市駅家町
福山の中心部から西北へ直線距離で約六キロ、駅家町の「今岡」という所に山内城と呼ばれる中世山城跡が残っている。
国道2号線から芦田川右岸の土手道に入り、「石原トンネル」を抜けたところで左折、ここから判りづらいが、そのまま芦品広域農道に入らず、土手道を行き、「山守橋」を過ぎてから左折、県道396号線を西に向かい、「JA福山」の建物を過ぎて左折する。上り坂をしばらく進むと「芦品広域農道」と交差し、さらに登ると左手に大きな寺の伽藍が見えてくる、曹洞宗万寿山長松寺だ。

城跡は、この寺の裏山(南方の山頂)で、「日本城郭全集」12巻によると、山頂は平坦で、古瓦などが出土するという。
城主は「備後古城記」等によると、山内氏であったという。同書は、品治郡今岡村のところに、「山内刑部為長 山内大和守養子、山内家臣横山某、長松寺開基す」、続けて、山内家断絶の後、寺は大破し、慶長元和の頃、桑田氏が水野氏の援助を受けて再建し、福山城下泉龍寺の末寺となった顛末を記している。

古城主の来歴に詳しい「西備名区」は、城の起源を保元年中(1156〜59)の須藤刑部少輔に求め、天文年中(1532〜55)に至って、城主山内刑部少輔直通が早世した男長松の為に一寺を建立し、長松寺と号したとする。

須藤刑部少輔、山内刑部少輔直通は共に実在するが、残念ながら当地に城居するような人物ではない。

山内氏は、正式には「山内首藤氏」といい、相模国山内庄(現鎌倉市)を本貫地とした源家譜代の御家人であった。その祖首藤経俊は石橋山の合戦で平家に味方し、射た矢が頼朝の鎧の袖を貫き、本領山内庄を没収されるが、母が頼朝の乳母であったことから一命を助けられ、後には伊勢伊賀の守護を命ぜられるほど頼朝の信任を得た。

この山内氏と備後との関係は、後に経俊が備後国地毘庄(庄原市)の地頭職に補任され、子孫が備後に本拠を移したことによる。庄原市本郷の「甲山城」(県史跡)がそれで、以後、備後の有力国人として活躍し、慶長五年(1600)の関が原合戦後は毛利氏に従って長州萩に移り、3千石取りの重臣として幕末まで続いている。

「西備名区」に出て来る「山内刑部少輔直通」は、正しくは、次郎四郎、上野介、大和守を称し、備後山内家第9代目の当主、乱世の備後で「守護代」を務め、実質的な戦国大名として備後に君臨した。

この場合、「備後古城記」の伝える山内為長こそ当地の城主としてふさわしい。山内氏は備後北部が地盤であったが、直通の父豊成の活躍で備後南部にも所領を獲得していた。「石成庄下村領家」分がそれだ。

石(岩)成は現在でこそ小地域の地名になっているが、かつては新市から神辺までの神辺平野の大部分を占めた大荘園であった。ここに山内氏を名乗る城主が居たということは、ここ今岡一帯が豊成に与えられた「石成庄下村領家」であったのであろう。「備後古城記」」などの近世資料も取り扱いさえ誤らなければ、十分参考資料として使えることを、山内城の例は示している。