粟根城と粟根氏
加茂の谷から山野町へ、以前は国道182号線の「東城別れ」交差点から、山際の道を対向車に気をつけながら向かったものだが、現在は谷のやや東よりに立派な舗装道路がつき、トンネルを抜けると駅前からでも30分足らずで山野町に着く。

この道を行くと、加茂谷の最奥部で、左手に見るものを威圧するかのように迫ってくる山がある。粟根城の山だ。鋭く三角形に切り立った山容は人を寄せ付けず、山城としての立地に申し分はない。

東西南は絶壁状に落ち込み、山麓から登るのは、やめたほうがいい。城は吉備高原の南縁から平野部に伸びた尾根の突端を利用したもので、北の尾根続きからチャレンジして欲しい。井笠バス「落合橋」バス停辺りから、「ペット霊園」の表示にしたがって左の広瀬に行く旧道に入り先ず採石場を目指す。採石場の南端から山に入り、尾根筋を南に進むと、一旦下って鞍部に降り、さらに進むと次第に高度を増しやがて2重の堀切を経て城跡に達する。

城の構造は、山頂を削平して本丸とし、周囲に2.3の曲輪を設けただけの単純なものだが、山頂本丸からの眺望は絶景である。加茂谷から神辺平野、さらには南の山越しに瀬戸内海まで見通すことが出来る。

「備後古城記」などには、安那郡粟根村の古城主として、粟根氏と横山氏の名を挙げている。

粟根氏で最初に名が出るのは長門守だ。寛永十六年(1639)3月の林光院が「福山御奉行衆」に差し出した寺社領注進状によると、賀茂大明神が京都よりこの地に下向された時、「粟根長門守と申す仁お供仕り来」たといい、時代は明徳(十四世紀末)以前のこととある。

粟根・芦原・中野の加茂三か村は、鎌倉以来、京都賀茂社領「勝田庄」として記録に見え、おそらく粟根氏はこの勝田庄の庄官として土着し、土豪として発展して行った者であろう。

この粟根氏の子孫が広島商人「山代屋」となり伝えた文書(知新集所収)によると、「祖父道善入道」の譲りを受けた粟根長門守雅包は、永正十八年(1521)二月、嫡子と推定される「助七」に所領諸職を譲り、以後「助十郎(後東市介)」「助七郎」と続いて戦国末期に至ったようだ。家伝文書も粟根雅包譲状以外にも一〇通伝わり、その動向も比較的詳しく判明する。

これらの文書によれば、粟根氏は最初宮氏に従い、後神辺城主杉原盛重の家臣となって、戦功を立てた。

すなわち、永正十八年六月の「柏村合戦」の「馬屋戸口」合戦で手柄を立て、宮政盛から感状を受け、岩成合戦でも宮氏の一門と推定される泰盛から「敵を討捕の条比類なき働き」を賞せられた。

宮氏滅亡後は、弘治三年(1557)五月の石見日和要害合戦で手柄を立てたのを皮切りに、杉原盛重の配下として各地を転戦し、盛重から恩賞として「賀茂の内田一町」「同二町」や「賀茂の内抱地の田二町」を拝領している。中でも「抱地田二町を以て之を遣わす」という表現は注目される。これは粟根氏の所有する田二町の年貢を恩賞として粟根氏に与えたもので、粟根氏が在地では「地主」として農業経営を行う、地侍的存在であったことを示している。

粟根城は、こうした粟根氏が居城として築いたとするよりも、宮氏や杉原氏が加茂谷を押さえる拠点として築き、在地土豪の粟根氏に預けられたとした方がいい。古城記に同じく杉原氏の重臣横山氏の名前を挙げているのは、横山氏も城番を勤めた時期があったことを示している。

立地から見て、粟根城のような峻険な山城は、在地の小土豪の居城とするよりも、宮氏や杉原氏のような地域の支配者が領域支配の拠点として築いたと考える方が合理的である。