城山の麓に建つ正満寺

宇山城と正満寺
芦田川の支流「有地川」の流域は、考古学的に注目される地域だ。芦田川の中下流域では、今まで左岸の神辺平野北部の丘陵部が注目されて来た。
だが、最近の発掘調査で、このことは誤りであることが明らかになった。
駅家町の大橋営農団地の造成工事で発見された石鎚権現5号古墳は福山周辺では稀な前方後円墳で内光花文鏡が副葬されていた。
また、福田才町の茶臼山遺跡は、直径30?の大円墳で、出土した土器から3世紀にさかのぼる前方後円墳の可能性が指摘された。
尚且つ、下有地字久田谷の南面した丘陵の頂上に築かれた「曾根田白塚古墳」は、全国的にも稀な奈良時代に近い「終末期」の古墳であった。
福田才町から下有地にかけてが、この地域で最初に開けた地域であることは、地名からも言える。大字下有地の小学校や市役所の支所のある一帯の地名を「本郷」という。
他地域の例から見て、ここが旧有地郷の中心地であったことは間違いない。
鎌倉時代以降、こうした地域には在地武士の城館が構えられることが多い。
この地域では、さしずめ「堀町」の「宇山城」が其の候補だろう。
県道を動物園辺りから2キロほど進んで、有磨小学校の辺りで左折すると、右手の小高いところにお寺の屋根が見えてくる。
浄土真宗正満寺だ。城跡はこの寺の裏山に残っている。
私が初めてこの城に登ったのは30年近い昔の事だ。
宇山城の一帯は中世の城跡であると共に、宇山古墳群の所在地としても知られていた。
夏のある日、古墳群を調査するために友人と訪れた。夏草にさえぎられて、目的の古墳群は見つからなかったが、山頂の広い平坦地が印象に残った。
後で聞くと「宇山城」という中世の城跡だという。
二度目は、10年ほど前に、備陽史探訪の会の例会でこの地を訪れた時のことだ。
この例会は、地元の「芦田町郷土史研究会」との共催で、200名を越える地元の方が参加してくださり、大変盛況なものであった。
そのメインの見学地の一つが正満寺で、ついでに登ったのが宇山城であった。
2度目の印象もかんばしいものではなかった。広い平地は分ったが、整地の具合は甘く、土塁・堀切などはっきりした遺構は見られなかった。
だが、後になって、この「遺構がはっきりしない」ことが、この城の特徴ではないかと思うようになった。
実は中世前期の城跡と伝わるところは、皆こんなものである。この事実こそ、城跡の来歴の古さを示している。
西麓の正満寺は、浄土真宗の寺としては古い由緒を持っている。
備後に真宗が入ったのは、沼隈郡に光照寺が創建された鎌倉末期のことだが、南北朝時代の延元三年二月、備後守護の面前で日蓮宗徒と「問答」を行い、相手を説き伏せた、本願寺の存覚上人の教化によるところも大きい。
正満寺は、この存覚上人の滞在した寺として知られている。