湯舟城と有地氏
福山市芦田町柞磨に残るもう一ヶ所の山城、「湯舟城(入船山城とも言う)」は、典型的な「境目の城」だ。
福山から御調・甲山方面への近道、福山御調道路に入って約10分、車はあっという間に芦田町の主要部を通り抜け、湯舟城のある大字柞磨に入る。
ここからはスピードを落とし、周りを注意しながら進もう。
柞磨の中心で道は県道府中尾道線の高架を潜る。右手の老人ホームの建つ小山が前回紹介した滑山城跡で正面の奥まったところにそびえる三角形の険しい山が湯舟城跡だ。

現在、城跡に登る道はない。
城山の下で左手の小道に入り、麓に沿ってしばらく歩くと小さな溜池に出る(車はこの辺りまで入る)。
ここからは険しい斜面を遮二無二山頂を目指す。健脚の方ならば15分ほどで山頂の本丸に到達するはずだ。
城は、柞磨の盆地に西から東に「くさび」を打ち込んだように伸びた尾根の先端部を3条の堀切で断ち、階段状に削平して城郭とした山城である。
池の傍らから登ると、先ず山頂本丸直下の小さな腰曲輪に達する。
ここは山頂から南に派生した小さな尾根で、東西に伸びる主稜線に取り付いた敵に、「横矢」を浴びせることが出来る位置を占めている。
山頂の本丸は百坪ほどの平坦地で、東西に腰曲輪が付属し、南北は帯曲輪で結ばれている。
西に一段下がって築かれた曲輪は、この城最大の規模を持ち、東西40?、南北20?を測る。その西は、所謂城の「尾首」で、10?から30?の間隔で3条の堀切が築かれている。
本丸から東は四段の曲輪が構築され、城の「尾崎」となっている。
麓からの比高は約130?、南北と東の斜面は絶壁状に落ち込み、通路は西側の尾根続きのみという、正に天然の要害である。
問題は、この城は、「いつ」「だれ」によって築かれ、使用されたか、である。
刊本『備後古城記』には、柞磨村の古城の記載は無く、『西備名区』に、「入船山城 一本古城記。城主柞磨殿」として、前回紹介した室町中期の柞磨の領主、大和兵庫介を挙げているのみである。
滑山城の所で述べたように、湯舟城は典型的な戦国時代の山城で、大和兵庫介の活躍年代と時代が違う。
それよりも、『西備名区』が滑山城主として挙げている下井石見守に注目したい。
同書は石見守について、「年紀分明ならず」としながらも、「按ずるに。有地の属士に下井氏あり。又下江と称す。元山根氏にて、近頃、下江氏の人、山根と転称せり。井は江の音の誤りにて下江氏にはあらずや」と述べている。従うべき見解であろう。
『西備名区』の原資料、『備後古城記』は、元々村々の古城主を書き上げたものだ。
個々の城の城主に関してはそれほど厳密ではない。
原本で柞磨村古城主として書き上げられたものが、写本を重ねるうちに滑山城主や湯舟山城主として別々に載せられるようになったのであろう。元々戦国乱世に村々の小さな山城に独立の城主が存在できた筈はなく、個々の山城の考察は地域の領主の変遷を基に検討しなければならない。
柞磨は、府中から尾道にかけて拡がる木梨氏の所領に突出した有地氏の所領で、その確保のために築かれたのが湯舟城であったろう。
正に敵中に築かれた「境目の城」の典型的なもので、立地・構造ともそれを良く示している。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)