滑山城と柞磨氏
福山市芦田町は、大きく分けて、福田、有地(上下)、柞磨(たるま)の3つの大字で構成される。
後にすべて有地氏の支配するところとなったこの地域には、それぞれ別の在地領主が割拠し、山城を構えていた。
一番奥まった柞磨に本拠を置いたのは在名を名乗った「柞磨」氏であった。
最古の郷土史書「水野記」は、同氏について、次のような伝承を記録している。
「多羅摩村八幡宮
 天文三甲午年春、神辺城主山名理興、多羅摩某を攻める時、社段に火を放ち、後の山に於いて、多羅摩氏自害す」
「福山志料」は、柞磨(多羅摩)氏の居城を入船山城としているが、誤りであろう。
後で紹介するが、入船山城は立地、構造から典型的な戦国期の「境目の城」で、到底在地領主の居城とは言えない。
それよりも、同書が有地氏の家臣下井氏の城としている「滑山城」こそ、立地、構造から天文三年(1534)に滅んだと伝える柞磨氏の本拠にふさわしい。
柞磨氏は、室町時代この地の領主であった大和氏の後裔と考えられる。
大和氏は、伊勢平氏三重流の一族で、備後を代表する豪族杉原氏の同族である。
杉原氏の祖伯耆守光平の兄宗平が従五位下大和守に任ぜられ、子孫は「大和」を名字とした。
鎌倉・室町幕府に仕え、「康正二年造内裏段銭並国役引付」に、
「壱貫文 大和兵庫助殿
備後国柞戸(磨の誤記)村段銭」
とあり、確かに室町中期の康正二年(1456)、大和氏がこの地の領主として幕府に内裏修造のための段銭壱貫文を納めたことが分る。
柞磨が大和氏の所領であったことも、上下有地が「福田庄」に含まれていたとする、私の推論を補強してくれる。
大和氏は奉公衆として幕府に出仕していたが、杉原氏と違って、生活の本拠は京都にあり、在地性は希薄であったらしい。
その証拠は、備後の所領がいずれも杉原氏の所領と接する場所にあり、その経営を杉原氏の勢威に依存していたと考えられることだ。
兵庫助の一族大和弥九郎もこの時「千田村(千田町)」の段銭三貫弐百弐拾文を納めているが、千田村は杉原氏の本領「吉津庄」の一部であった。
文明十三年(1481)、西軍方に横領された杉原一族の所領は、将軍の命令で同氏に還付され、同年3月、一族連名で将軍へ礼銭500疋を献上したが、その連判状に「大和次郎左衛門尉」の名前もあった。
この例なども大和氏の所領支配が杉原氏に依存し、所領自体も杉原氏本領内を、「一分地頭」として支配したものであったことを示している。
よって大和氏の所領柞磨村は、杉原氏の所領「福田庄」の一部であり、大字福田との間に横たわる「有地」も「福田庄」に含まれていたとする結論に到達することとなる。
「天文三年、山名理興に攻められ自害」という「水野記」の記載は、有地氏が一時神辺山名氏に従っていたことを暗示している。
理興に関しては、後を継承した杉原盛重の勢力圏から類推して、勢力を過小評価するきらいがあるが、大内氏の下にあって、「備後外郡」の支配を任されていたことを忘れてはいけない(天正十九年付小早川隆景書状「渡辺三郎左衛門家譜録」)
柞磨氏の居城と推定される滑山城は、柞麿の小盆地に南面して築かれた山城で、現在山の東側が開発され、特別養護老人ホームが建っている。
登り口は西側にあり、小さな庵寺の境内から裏山に入れば、曲輪や堀切、土塁で構成された山城の遺構を見ることが出来る。麓からの高さ約45メートル、「土居形式」の古いタイプの山城である。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載)