茶臼山城と皆内蔵人
各地の山城の名で、最もありふれたのは「茶臼山」であろう。
福山市内でも神辺町御領の国分寺裏山に茶臼山城があり、同じく徳田の要害山も一名茶臼山と呼ばれている。
茶臼は下の臼が大きく上の臼は小さい、すなわち、正月の鏡餅のように2段に見えるような山を「茶臼山」と呼んだ。
今回紹介する御幸町中津原の茶臼山も遠望すると低い丘陵の上に一段高く山頂が聳えている、正に「茶臼山」だ。
この山は、福山西郊の最高峰高増山山系の一番西に位置し、北から東を周って南に、芦田川が外堀のように取り巻いている。
南には旧山陽道の「大渡り」が、北を望むと雄大神辺平野が一望の下だ。
山城の立地としては最高の場所だろう。
山は荒れて登る道はない。
北の麓にある羽賀八幡神社か、西南の石原集落の裏手辺りから、遮二無二山頂を目指すほかない。
北麓から城跡を目指すと、主稜線に取り付いたあたりで、城の北を限る堀切に出くわす。
ここから南に10メートルほど登ると幅5メートル南北20メートル前後の南北に細長い曲輪跡に出る。
更に南に登るとやや狭い平坦地がある、本丸の跡だ。
本丸の南端には櫓台があり、西南に堀切、東南に15メートルほどの細長い曲輪跡がある。
本丸から東に延びた尾根上にもやや広い平坦地があり、鉄塔の跡が残っている。ここも曲輪の跡だろう。
全体に加工が甘く、切岸も不鮮明である。
中世の山城跡には違いないが、長期間にわたって使用された山城ではなさそうである。
城主は、「備後古城記」などに、「羽賀弾正、同中津三郎、皆内蔵人」とあり、皆内蔵人は郷分村青ケ城の皆内出雲守の「舎弟」であったという。
羽賀弾正の「羽賀」は地名である。
城跡のある茶臼山は、一名「羽賀山」と呼ばれ、この在名を名乗った地侍と推定される。
中津三郎も、中津は旧「中津原村」の中津から来ており、弾正の一族か、或いは周辺の地侍であろう。
弾正や中津三郎と並んで城主として書き上げられている皆内蔵人は、古城記の書き入れにあるように郷分青ケ城の皆内氏の一族だ。
皆内氏は、昨年郷分町の「青ケ城」や神辺町竹尋の「大内山城」ところでも紹介したが、素性の分らないところの多い山城主である。
大内氏の「郡代」として高富庄と呼ばれた神辺町の上下竹田に入ったと伝えるが、大内氏の家臣団に「皆内」姓の武士はいない。
だが、皆内氏の痕跡は、大内山や青ケ城に残っている。
中でも青ケ城は周辺では、山手銀山城に次ぐ規模で、この一族が確かに戦国の一時期、この地域に勢力を持っていたことを示している。
中津原の茶臼山は、郷分青ケ城の勢力圏の北端に位置し、皆内氏にとってはどうしても確保しておきたい山城だったろう。
或いは、羽賀弾正や中津三郎もこの一族で、在名を名乗った者かも知れない。
しかし、皆内氏は伝承によると、大永から天文年間(1520〜1550頃)という極めて短期間備後の山城主として存在しただけで、滅びて行った。
こんなところが、同氏に関する記録が少ないことと、茶臼山城の遺構が不鮮明なことの理由だろうか…。