西山城と西山摂津守
福山市の坪生町と春日町の境の山に「西山城」と呼ばれる中世の山城跡がある。
蔵王の旧バス道路を春日の浦上から峠越えに坪生に向かうと、丁度、旧村境付近の左手の山頂で、現在、城跡に稲荷神社が祀られている。
城は、春日と神辺町の上竹田の境の山塊から南に波状に派生した尾根の一つを堀切によって断ち切り、平野に向かって2段の曲輪を構えただけの極めて簡単な造りである。
最高所の本丸の規模は南北27メートル、東西18メートルを測り、東南に一段下がって稲荷神社が建つ曲輪がある。
また、この2段の曲輪の東側には山麓から山頂に通じる山道が存在し、帯曲輪の跡と推定される。
この簡単な構造から、到底独立した山城とは考えられない。
立地から見て、「境目の城」と「つなぎの城」の役目を果たしていた山城であろう。
中世の山城は、大きく分けて大名や国人の「本城」と、領域の境目や本城との間に設けられた「支城」に分けられる。
広島県内には約1千ヵ所の山城跡が発見されているが、そのほとんどは、こうした本城を守るために築かれた「支城」だ。
西山城のある坪生町の西池平は、中世福山市の東南部を占めた「坪生庄」の西端に位置する。
旧バス道路を浦上の方面に下れば、中世の「吉津庄」だ。
坪生、吉津庄は共に中世の福山を代表する荘園である。
坪生荘は、福山市の坪生町から笠岡市の篠坂にかけて存在した摂関家領の荘園で、中世後期、南の沿岸部は「五ケ庄」として分割された。
これが所謂「五ケ手島」だ。
一方の吉津庄も現在の木之庄町から春日町にかけてを庄域とした八坂神社の大荘園で、当時の文書に「吉津庄内木庄(木之庄町)」「吉津庄内千田村(千田町)」「吉津庄内宇山村」など馴染み深い地名が出てくる。
西山城は、坪生庄の西の見張り台、「境目の城」の役割を果たしていたことは間違いない。
また、時代によっては「つなぎの城」の役目も負わされていた可能性がある。
城跡の東を走る山道をそのまま登れば、背後の稜線を越えて神辺町の上竹田に出る。
戦国時代、一帯は神辺城主山名理興の支配下に入るが、沿岸部の手城島、明地山など、理興配下の城と本城の神辺城との間の連絡用の山城として西山城は絶好の立地を占めている。
西山城は神辺城の支城として活用され、天文12年から18年にかけての「神辺合戦」では理興方の砦として重要な役割を果たしたはずだ。
城主は、「西備名区」に、「西山城、一名池原城。又、神原城」として、
「神原伯耆守助宗、大内氏の臣と云。
 同 采女正助春
 同 和泉守
 同 四郎頼景」と、神原氏四代が居城し、享禄年中(1528〜31)に没落したと記す。
西山城の別名を池原城というのは、所在地の地名「池平」の転訛、「神原城」は、城主神原氏に由来する城名だろう。
この「西備名区」の記載を信じると、神原氏は神辺城主山名理興登場前に滅亡したか、或いは理興によって滅ぼされた豪族だろう。
「水野記」によって、理興は天文元年(1532)、神辺城主となったと考えられるからだ。
最後の城主は、西山摂津守俊幸と伝わっている。
時代ははっきりしないが、山名理興の時代であろう。
俊幸の子孫は水野勝成に召抱えられた。
水野二代勝俊に殉死し、見事に追腹を切った西山半左衛門はその後裔である。