佐波城と佐波越中
市内で一番簡単にハイキングが楽しめるのは、草戸町の明王院裏山だろう。
五重塔の左手に、山頂近くにある「愛宕さん」の参道があり、この道を利用すると15分ほどで山頂広場に達する。
もっと手っ取り早く散策を楽しもうとすれば、車で明王台に行き、給水塔下の駐車場から尾根道に入る、左に5分歩けば山頂広場だ。
また、この地は市民にとって最も身近な「中世」とも言える。
福山のルーツの一つ、「草戸千軒町遺跡」は、明王院(旧称常福寺)の門前町として栄えた中世の市場町だ。
中世の人々も事あるごとにこの山を歩き回ったはずだ。
戦乱の時代には当然この山にも砦が築かれた。草戸山城、佐波城と呼ばれる山城の跡がそれだ。
草戸山城は「西備名区」に記載がある山城で、渡辺一族の居城とあるから、以前に紹介した「草戸中山城」と同じものであろう。
同城は、草戸の通称「大鳥越」の南に一見独立した山城のように見えるが、切通しの北の尾根上にも曲輪跡と思しき平坦地が数段あり、この部分もその城域に含まれよう。
草戸山城(中山城)が明王院裏山の南端を利用して築かれたのに対し、今回紹介する佐波城は、その北端に築かれた山城である。
明王院境内から愛宕さんの参道を通って裏山に登ると、愛宕さんの社前で道は左右に分かれる。
左に行けば山頂広場を経て、明王団地の給水塔下の展望台に出て、更に下れば渡辺氏の拠った草戸中山城に至る。
佐波城の跡には、愛宕さんの前から右に進む。最初に「親王院跡」がある。
平城天皇の皇子で、出家して羅越国(東南アジアにあったという国)で虎に食われて亡くなったという、高岳親王が一時住んだという旧跡で、今はわずかな平地と腐朽した標柱が残るのみだ。
ここから更に進むと、木のベンチのあるやや広い広場に着く。
ここも中世、城があった時代、武者の屯した曲輪の一つだろう。
佐波城の跡と伝わる場所は、明王院裏山の一番北の山頂だ。
愛宕さんからの道は、ベンチのある広場を過ぎると急に険しくなり、一旦落ち込んで、5メートルほど登ったところにかつての本丸跡がある。
一旦落ち込んだ部分が所謂城の「堀切」だ。本丸跡は堀切側に「土塁」の痕跡が残るのみで、北は断崖となって福山市の旧浄水場跡に至る。
そう、この城の大部分は大正時代、福山市の佐波浄水場の建設によって壊されてしまったのだ。
佐波城は、今も地元の人に「城山」として親しまれている。
浄水場の建設によって壊された部分には、曲輪跡などの遺構が残っていたはずだ。残念なことである。
だが、この旧浄水場は「福山市」が誕生する原因となったもので、既に稼動していないが、レンガ造りの建物はそれ自体が貴重な歴史の生き証人となっている。
城とは関係ないが、芦田川の三角州に建設された福山の城下町は、当初から飲料水の確保が悩みの種であった。
明治時代、旧上水道が原因で数百と言う人が伝染病で命を落とした。
福山の人にとって近代的な上水道の建設は至上の命題であった。
近代上水道の建設には莫大な予算が要る。
福山町」では国の補助金が下りない。
大正3年、福山町に「市制」が実施されたのは実に、この上水道の敷設の為であった。
水源は当時の熊野村「論田池」が選ばれ(今の熊野水源地だ)、その水は導水菅によってこの佐波の浄水場に運ばれ、「飲料水」となって市街地に給水された。
佐波城の城主は南北朝時代の武将佐波越中守可美と伝わっている。
可美は元弘の変に際し、桜山氏に味方し、この城を築いて南朝方の旗を揚げた。
佐波氏の後は名倉氏が居城し、応仁の乱を迎えている。
この時代、城は武士だけではなく、商人や農民も立て籠もったから、いざ合戦と言う場合には草戸千軒町の人々も篭城したに違いない。
むしろ、立地的に明王院裏山に残る山城は、名倉氏や佐波氏、渡辺氏の城と言うよりも、草戸千軒町の住民の避難所であったすべきかも知れない。