■
鷲尾山城址
鷲尾山城と木梨杉原氏(続編)
戦国備後の象徴的な山城、鷲尾山城跡は今も木梨の里に悠然と聳えている。
国道184号線を尾道から北へ約15分、新幹線の高架を過ぎてしばらく行くと、「木梨口」の交差点がある。尾道市木之庄町木梨はこの交差点を右折して、一山越えたところだ。
木梨の里に入ると、北に西から東に突出した山が目に入る。
東のスロープは流れるような曲線を描いて里に落ち込んでいる。
木梨杉原氏250年の歳月を刻んだ鷲尾山城跡だ。
城の名の「鷲尾」は、杉原一族にとって由緒ある名前である。
杉原氏は前に述べたように、桓武平氏である。
将門の乱を平定した平貞盛の後裔で、その四代の孫貞清が伊勢(三重県)の安濃津に土着して三重・大和・杉原氏などの祖となった。
伊勢は平清盛を生んだ伊勢平氏の本拠地で、貞清流の平氏はその家人であったとも言われている。
貞清の子桑名三郎清綱は別名「鷲尾次郎」とも称した。
杉原氏はこの清綱の子孫にあたるから、鷲尾山城の「鷲尾」は清綱に由来する城名であることは間違いない。
現在の県道は、木梨の里の南を東西に走り、原田町を経て府中に至るが、旧道は木梨に入ると鷲尾山の東の麓を巡って府中市河南町に通ずる。
旧来の登山道は山の南にある「浄正庵」の横を通って山頂に至るが、現在は城山の西南の谷から上がる林道が整備され、山頂近くまで自動車で登ることが出来る。
城は東に突き出た山頂に本丸を置き、西北と南に連続して曲輪を築き、西の山塊との間には深い堀切を築き、西からの敵の侵入に備えている。
また、西南に突出した支尾根上にも曲輪が築かれ、「出丸」跡と称されている。
250年にわたって使用された山城だけに興味深い遺構がたくさん残っている。
本丸跡に残る築山
一つは、本丸に残る礎石と「築山」跡だ。
本丸は30メートル四方の平坦地だが、中央やや西よりに枯山水の蓬莱石と考えられる立石があり、その東一面に綺麗な礎石が残っている。
以前ここから瓦の破片が出土しており、全盛時には相当な建物、いわゆる「御殿」が建っていたものであろう。
本丸の西下に残る「柱穴」も注目される遺構の一つだ。
柱穴は西下の曲輪の本丸側に点々と穿たれている。
推定するに、この柱穴は、本丸から西に張り出して建てられた櫓を支えるための礎石の役割を果たしていたのではないだろうか。
このような曲輪面から張り出した櫓の存在は近世の城郭にはたくさん見られ、戦国期の山城の発掘でも確認された例がある。
この後の詳細な調査に期待したい。
本丸の東下には「石牢」の跡ではないかと思われる場所もある。
石牢の跡か
岩盤を刳り貫いた幅3メートル、高さ2メートルほどの人工の洞窟で、井戸跡と見られなくもないが、水の痕跡は全く無く、人質や罪人を閉じ込めた牢屋の跡としか考えようがない。
本丸から西の堀切まで段々に削平された曲輪群も見ものだ。
この曲輪群の北側は「削り残し」の土塁が連続して築かれ、南の切岸には石垣が残っている。
この北側に連続して築かれた「削り残し」の土塁は、杉原氏の築いた八尾山城跡(府中市出口町)や銀山城跡(福山市山手町)にも見られ、杉原氏独特の築城術と考えられるものである。
西の尾根に残る石垣
この「杉原流」の築城術、鷲尾山城跡の本丸に立つと、よく理解できる。
遙か北の雲間には杉原惣領家の居城八尾山城がはっきり確認できる。
東に相対する摩訶衍寺山にある摩訶衍寺は為平の後裔である銀山城主杉原氏の菩提寺である。
摩訶衍寺から東を望めば銀山城の築かれた福山西郊の山並みを見通すことが可能だ。
杉原一族は築城術を共有することと、互いに見通すことの出来る山城を築いて、乱世を生き抜こうとしたのだ。