木梨の里に高く聳える鷲尾山城址

鷲尾山城と木梨杉原氏
木梨氏が尾道を支配していた証拠は二つの山城跡のほかにも残っている。
代表的な史料は、天正十六年(1588)の「輝元公御上洛日記」だ。
この史料は、毛利輝元が初めて豊臣秀吉に会見するため同年の7月7日に安芸吉田を出立して、9月19日に吉田郡山城に帰着するまでの日記で、往路、復路とも沿道の国人衆の歓待を受けたことが記されている。
往路では「瀬戸」で「御行水」の折に備後国人有地民部少輔が使者を派遣し太刀を献じたとあり、復路では鞆で村上左衛門大夫の、尾道では木梨元恒の歓待を受けた。
これは村上氏が鞆を、木梨元恒が尾道をそれぞれ支配していたことを示している。
尾道では、毛利輝元は「笠岡屋」を宿所とし、出迎えた木梨元恒はこの所で「御一献ヲ進上」「種々の御馳走」があったという。
だが木梨氏の尾道支配もこの時期までであった。
毛利氏は豊臣政権下の大大名としての地位を確立すると、領内の検地を断行して、鞆・尾道などの重要港湾を直轄地とする中央集権的な政策を採った。
この結果、木梨氏は尾道を奪われ、最終的に没落したのである。
一説に、木梨氏没落は、同氏と東隣の古志氏が毛利氏の支配を脱し、秀吉直属の大名になろうとしたためだ、とする記録もある。
「木梨先祖由来書」は言う、「木梨家、毛利輝元卿のお心に叶わざる事あり、御つぶしなさるべき由風聞ありける故、古志と両家老共相談にて、太閤公直の御旗本に成り度と、色々謀略仕りける所に、其の企毛利家えもれ聞こえ、輝元卿御立腹なされ(後略)」木梨氏は領地を没収され没落したという。
尾道を窺う毛利氏の意向を察知した木梨氏が、古志氏と共に秀吉の庇護を得ることでその危機を逃れようとしたものだろうが、実は毛利氏は大陸制覇を夢見る秀吉の意向を受けて、鞆・尾道などの重要港湾の直轄地化を進めていた。
木梨氏は、秀吉と輝元の仕掛けた罠にはまり、尾道はおろか本領の木梨庄まで失うことになったわけだ。
各種の記録によると、木梨氏最後の当主宮内大輔広盛は、尾道千光寺山城を没収された後、一時木梨に帰り、鷲尾山城の麓に屋敷を構えて居住したという。
尾道千光寺山城の本丸、天守閣が建っていたと言う「八畳岩」の上に立つと、はるか北の雲間に木梨鷲尾山城を見通すことが出来る。
木梨の里に聳える鷲尾山城は、乱世を象徴する山城であった。
杉原信平がこの山に築城して約250年、時代の荒波の中、落城は3度に及んだ。
戦国の初頭、尼子に味方した木梨氏は大内氏の軍勢に攻められ、落城…。大内に侘びを入れて城主に復帰したのも束の間、今度は尼子氏の猛攻を受け、城は落城、城主隆盛は出雲へ拉致された。天文十二年(1543)6月のことであった。
しかし、中世豪族の生命力はたくましい。
大内氏の後援を受けた一族家臣団は苦心の末、隆盛を尼子氏から奪い返し、城を奪還した。この時、その中心となった隆盛の従兄弟盛兼は、大内氏から服部四か村を拝領して、駅家町服部の泉山城主となった。
さらに永禄年間、城は3度目の悲運に見舞われた。西隣の石原氏が「しのび」の者を使って城に火をかけ、急襲、城主隆盛は流れ矢にあたって落命、城はあっけなく落ちた。
木梨氏は間もなく城を回復したが、「鷲の尾は落ちるものなり」城の名が不吉だとして、「釈迦ケ峰城」と改名したという。
文禄元年(1593)、最終的に本領を没収された木梨氏はこの地を去った。
そして、再び帰ることはなかった。備後の戦国の終焉であった。