謎の山城、木之上城址(3)

謎の山城、木之上城址(3)
神辺町西中条
 標高320?の山頂から20?下がったところにある古瓦出土地は古代の山岳仏教の遺跡であることは間違いない。平安時代に古代の国造の子孫安那氏がこの山上に伽藍を建てたという説があり(日本城郭全集・神辺町史)、「天仁(1108〜1110)」という平安時代の年号の刻まれた瓦が出土したと伝えられている。

 寺院関連の遺跡としては、古瓦出土地から南の平坦地が注目される。古瓦出土地と東の稜線との間は、南に幅30?ほどの緩やかな谷が100?前後伸び、段々に削平されて13段の平坦地となっている。「寺屋敷」と呼ばれるこの一帯は、山岳寺院が存在した時代、僧達の坊舎が立ち並んでいた場所と見ていいだろう。麓に立つ「層塔」残欠もこのあたりに立っていたはずだ。

 「もと城」から「御殿丸」と呼ばれる部分も中世の山城遺跡と考えられる。問題は山頂から東に残る土塁と、南の「馬場」跡に残る「列石」である。

 山頂から東に見られる「土塁」は土を盛り上げて造ったものではない。稜線の内側と外側を削って土塁状にしたものだ。この土塁状の稜線は、さらに東南に50?伸び、鐘撞堂下の平坦地に続いている。よく観察すると、この土塁は上下2段に分かれ、内外に犬走り状の通路が付属するようである。初めてこの土塁を見たとき、メンバーの中の古代山城研究者は、これは古代山城に良く見られる『車道』ではないか、と言った。

 古代の山城は、今まで紹介した中世の山城とは全く違う。一山全体を城壁で囲ったものが多く、中国や朝鮮半島の城壁を見る趣がある。多くの場合、城壁は土塁や石塁で防御され、その内外に犬走り状の平地が付属する。これが九州地方の古代山城に見られる「車道(くるまみち)」
だ。木之上城の土塁の内外に残る細長い平地もそれではないかというのが彼の意見であった。

馬場跡に残る謎の列石
 馬場跡に残る列石も見ようによっては古代山城に見られる「神護石(こうごいし)」と見えなくはない。神護石は主に九州地方の古代山城に見られる遺構である。高良山久留米市)や女山(福岡県山門郡)のそれが有名で、1?前後の切石が数百?から数キロにわたって山腹に続いている。かつてはこの列石は、霊地を守る結界と考えられていたが、今日では、城壁の土が流失したため、その基礎の石列が地表に現れたものと判明している。木之上城のこの謎の列石もこの神護石の名残ではないか、と考えたわけだ。

 その他、鐘撞堂やもと城に残る台地も古代山城の望楼の名残と考えれば、木之上城は名称からしても、遺構から見ても古代山城「茨城」の推定地として益々ふさわしくなった。古代山城が平安仏教の聖地となり、さらに室町戦国時代の城砦として利用されることは、お隣岡山県総社市の「鬼城」のように珍しくない。木之上城もその一つではないか、我々は一層の城址に関心を持つようになった。(田口義之「新びんご今昔物語」)