謎の山城、木之上城址(4)

謎の山城、木之上城址(4)
神辺町東中条・三谷
 稜線上の土塁と望楼、謎の石列、確かに古代山城の匂いがぷんぷんと漂ってくる木之上城だが、これを『続日本紀』に出て来る「茨城」に比定するには、やや躊躇を感じる。

城址に残る石垣
 豊元国氏以来、茨城は古代大和朝廷が大陸からの侵攻に備えて築いた山城だと言われてきた。すなわち、663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れて朝鮮半島での足場を失った天智天皇を中心とした朝廷は、都を近江の大津に移すとともに、対馬から大阪湾岸にいたる各所に山城を築いて防備を固めた。この時築かれたのが備後の常城、茨城である、というわけだ。

 常城は、今までの調査で、府中市街地の北を限る亀ヶ岳の山頂付近に築かれていたことが判明している。『続日本紀』に出て来る山城は、常城・茨城以外に周辺では四国讃岐の屋島城がある。屋島というと源平合戦で有名だが、古くから石塁が存在することが知られており、最近の発掘調査で古代山城であることが確認された。

 もし、これらの山城が大陸からの侵攻に備えて築かれていたとすれば、互いに連携できる場所に存在するはずである。そうすると、茨城は常城と屋島城を結ぶ線上に存在するはず、そう考えた豊氏は、茨城を福山市千田町と蔵王町の境界線上にある蔵王山に比定した(奈良時代山城の研究)。

 確かに、標高226?の蔵王山の山頂に立てば、西北はるか雲間に亀ヶ岳が望め、東南を望めば瀬戸大橋を確認でき、「のろし」であれば屋島城との連絡も可能であろう。

 だが、ここで一つ問題がある。もし常城や茨城が北九州と大阪湾岸を結ぶ連絡用として築かれたのであれば、常城から西はどのようになっていたのか…。『続日本紀』に見える山城としては、常城以西に長門城(山口県下関市)があるが、直線距離で200キロ以上離れており、両城の連携は到底無理である。しからば、その間に古代の山城、あるいはのろし台の跡が発見されているかといえばそれもない。

 屋島城や長門城は立地その他から推定して、663年以降大陸の侵攻を警戒して築かれた山城であろう、だが備後の常城、茨城は別の観点からの説明が必要である。

 一つの考えは、この両城が備後国府防衛のために築かれたとすることだ。「国府城」とする考えは古く神辺郷土史家高垣敏男氏が「備後国府考」で述べられた説で、同氏は神辺町湯田の要害山山塊を茨城に比定された。 

 国府の背後に古代山城が存在することは、最近になって次々と確認されている。岡山県総社市の鬼城(備中国府)、岡山市の大廻小廻山(備前国府)、香川県坂出市の城山(讃岐国府)などがそれだ。

 この国府城説に立てば木之上城が備後国府を守るために築かれたとしても良い。備後国府は奈良時代以降府中市元町一帯にあったことは確かだが、当初は神辺町湯野の「方八丁」に設けられたとする考えもあり、その場合、木之上城は国府の北の要害の位置を占めている。「国府城」にふさわしいではないか、というわけだ。

 だが、一つ問題がある。岡山の鬼城などは国史日本書紀続日本紀)に見えない古代山城であるのに対して、常城・茨城のみが国史に記載があることだ、なぜか…。(田口義之「新びんご今昔物語」)