謎の山城、木之上城址(5)

謎の山城、木之上城址(5)
福山市神辺町東中条・三谷
 木之上城跡の北の山頂から東南にかけての一帯が古代山城の遺跡である蓋然性は高い。尾根上の土塁や望楼跡などは中世山城には見られない。古代山岳仏教の聖地となったらしいことも、他の古代山城の例からしてありえることだ。だが、この遺跡を『続日本紀』に見える「茨城」の遺跡としていいかどうかは問題である。

 常城、茨城に関する史料は次の一文のみである。

「(養老三年)十二月(略)戊戌
停備後國安那郡茨城。葦田郡常城。」

 ここでいつも問題になるのは「停」の意味である。「停」は「とどむ」と読む。では「何を」停めたのか…。

 二つの読み方がある。一つは「使用を」停止した、とする読み方だ。これが今までの定説で、過去のある時期に築かれた二つの城がこの時、役目を終えて廃城になったと考える。当然、完成して一定期間使用されていたわけだから、「遺跡」は残っているはずだ。

 一方、「停む」を築城を「停止」した、と捉える意見もある。なぜならば両城とも明確な遺跡が発見されていないからだ。「常城」の位置は府中市の亀ヶ岳一帯で確定しているではないか、という意見もあろうが、推定地とされているのみで本当の意味でその遺跡が発見されているわけではない。茨城に至っては豊氏が蔵王山説を発表されたのみで、遺跡はおろか場所も定かでない。

 遺跡が「定かでない」ところから、この「停」を築城を停止したと読む。常城、茨城の明確な痕跡が残っていないのは、それが築城途中で、完成していなかったためとする。

 使用を「停」めたのか、築城を「停」めたのか、それは当時の政情を見る必要がある。

 養老三年、西暦719年は、日本では元正天皇新羅では聖徳王の治世に当たる。平城遷都が710年だから日本は古代国家の黄金時代を迎えようとしていた。新羅との関係はやや険悪であったが、特に新羅の侵攻を警戒しなければならない情勢ではなかった。

木之上城址に残る井戸
 豊氏は、常城、茨城を奈良時代、朝廷が築いた「怡土城(いとじょう)」に類似する古代山城と考えておられるが、怡土城は西暦756年に築城を開始し、12年の歳月をかけて768年に完成、孝謙天皇の命を受けた吉備真備が大陸の築城術を応用して造ったと『続日本紀』にちゃんと載っている。また、その築城理由も当時大陸で「安禄山の乱」が勃発、その余波を恐れて築城したと、理由も分かっている。

 こうして見ると、719年に「新たな築城を停止した」とするには無理があるようだ。やはり、719年以前に築城された城を「廃城した」と素直に読むべきだろう。

 古代山城に国史に記載のある山城(たとえば長門城、屋島城)と記載のない山城(鬼城、石城山)があるのを見ると、古代の日本には想像以上の数の古代山城が存在したことが考えられる。木之上城を無理に「茨城」に比定する必要はなく、別に多数存在した古代山城の一つと考えてはどうだろうか…。(田口義之「新びんご今昔物語」)