謎の山城、木之上城址(6)

謎の山城、木之上城址(6)
神辺町三谷・東中条

 山頂の東南、いわゆる「もと城」地区から西南に伸びる尾根上に構築された曲輪、堀切、井戸跡は中世山城の遺構と見て間違いない。

 「もと城」は本丸を意味する地名であろう。ここは標高320?の山頂から東南に伸びた稜線の突端にあたり、「鐘撞堂」と呼ばれるピークとの間に堀切状の低い曲輪が築かれ、城の搦め手となっている。

「もと城」に残る石組
 ここから西南に連続して築かれた曲輪群は戦国期の山城として典型的なものである。城郭は本丸として使われた「もと城」部分と西南の稜線突端に築かれた「狸城」と呼ばれる曲輪群からなっている。その間の小さな削平地は連絡用の腰曲輪であろう。もと城と狸城の間の鞍部に築かれた馬場と呼ばれる広大な平坦地はこの城の居住スペース、城主の居館があった場所であろう。東西40?、南北60?に達する空間は居館を構えるにふさわしい規模と立地を占めている。

 かつて、中世山城は一朝有事に備えて築かれた臨時の城砦で、城主は平時麓の平地に営まれた居館に居住していたと説明されてきた。これが、いわゆる「根小屋式山城」論だ。鎌倉、南北朝の山城は別にして、発掘調査の進展によってこの考えは誤りであることが明らかになった。山城を発掘してみると、15世紀初頭から16世紀にかけての遺物が大量に出土する。城主が山上で生活していたことが記録からも明らかにされた(斉藤慎一「中世武士の城」)。

 木之上城跡の馬場跡からもここで「生活」があったことを示す遺物が発見されている。20年ほど前のことだ。木之上遺跡をを守る会の皆さんが、城跡整備の一環として、馬場の西南に残る井戸の「井戸浚え」をしたことがある。城址の井戸跡は馬場の南端の東西に石組円形井戸が残り、そのうち西側のものは今でも水が枯れることなく湧き出ていたが、管理するものがないまま荒廃していた。この井戸の底を浚うと、何と漆塗りの木の椀が出て来たのである。長らく水に使っていたためか、昨日落としたのかと思うような色鮮やかさであった。早速県立歴史博物館に鑑定を依頼してみると、室町中期のものと判明した。今から500年前の室町時代、ここには確かに人々の生活があったのである。

 城主と伝わる金尾氏は謎の多い豪族である。以前述べたが金尾氏に関する確かな史料はほとんど残っていない。以前紹介した「筑州書状を取り候つる金尾と申すもの」とある毛利輝元書状がただ一点あるのみである。

 だが、この地に金尾氏という中世武士団が存在したことだけは間違いない事実である。三谷に今も法灯を伝える竜華寺は宝徳二年(1450)金尾遠江守の創建と伝え、何よりも木之上城跡の遺構が金尾氏の勢力が並みのものではなかったことを示している。問題はこの氏族が何を基盤にこの城に拠ったかだ。多くの耕地を望めない立地から、北の三谷に残る銅鉱を背景に勢力を張った豪族と見たいがいかがだろうか…。(田口義之「新びんご今昔物語」)