山手銀山城と杉原氏

銀山城と杉原氏
 福山市山手町
 私の山城歩きは中学3年頃から始まったが、今から思うと福山地方の代表的な山城に最初の一歩を印したのはこの頃のことで、幸か不幸かこのことがその後の私の運命を決めたようである。

 福山市内の代表的な山城の一つ、山手町の銀山城跡をはじめて訪ねたのもこの頃のことだ。

 銀山城の存在を知ったのは、その頃私のバイブルとなっていた『福山市史』上巻である。

 銀山城が登場するのは、第7章室町戦国時代の三、大内氏と尼子氏の項の「山名忠勝の敗北」のところで、尼子方の山名忠勝が惣領家を排除し神辺城主になったことに続けて、「これに対抗して大内義隆は天文7年(1538)7月山手の銀山城主杉原理興をつかわして神辺城を攻撃し、これを攻め落としてかわって理興を神辺城主につけたのである…」

 同書は続けて理興の出自を述べ、乱世の福山地方の様子を活写、少年の好奇心を掻き立てたのであったが、挿図として銀山城の遠景写真を掲げ、これが又私の関心を誘ったのである。

 今この写真を見ると、実際の銀山城は左隅に低く移っているのみで、知らない人がこれを見ると、右手の三角形の山を銀山城跡と間違えそうである。


銀山城址近景

 実際、城跡に一歩を印すまで何度か見当違いの山に登った。迷いながらも城跡にたどりつくことができたのは、地元の方に場所を教えてもらったからである。地元の方は「銀山城」と言っても誰も知らなかった。「城跡はありますか?」と尋ねると、「ああ、要害のこときゃあ、要害山ならあそこじゃあ…」と、やっとその山を教えてもらった。当時は、山陽自動車道はおろか、山陽新幹線や林道もなかった時代で、城跡に登る道は、城があった時代の登城道がそのまま使われていた。山手三宝寺の西側の谷筋、城主杉原氏の軍勢が勢ぞろいしたという「旗谷」から登り詰めると小さなため池があり、そこから左手の山頂を目指した。下から見ると山頂付近に建物が建っているように見え、ありえないはずであったが、城の櫓が今でも残っているかのような錯覚にとらわれた(これは枯れた巨木であった)。

 今から40年前の城跡は、雑木がほとんどなく、城跡の様子を見渡すことが出来た。最初気になったのは、山頂の本丸の南端辺りにあった花崗岩の切石に囲まれた窪みであった。当時の私にはこれが建物の礎石のように見えた。

 迷いながら登ったため城跡の着いたのは夕方で、冬の陽は早くも陰り、あたりは薄暗くなっていた。そうした薄暗い中で城跡に佇むと、何やら不思議な気配があたりに漂い、背中に悪寒が走る。急に怖くなった私たちは足早に城跡を後にした。

 以来、この城跡には何度となく足を運んだ。訪ねるたびに新しい発見があった。歴史的な考察を含めて、改めて、この40年間の調査の成果を紹介したいと思う。(田口義之「新びんご今昔物語」)