銀山城と杉原氏(2)

銀山城と杉原氏(2)
福山市山手町
 銀山城跡を訪ねるには、先ず津之郷町の「弘法の水」を目指す。福山駅前から国道2号線に入り、神島橋西詰で右折、土手道を1キロほど進み、山手橋西の交差点を左折、突き当たりを右折、突き当たった県道が旧西国街道で、左折して1.5キロ程行くと「弘法の水」の看板がある。そこから道なりに2キロ登ると「弘法の水」に達する。

 実はこの道はれっきとした「県道」で、終戦後しばらくの間は駅家方面の人が福山への近道として盛んに利用した道である。今はここまでしか車は通れないが、いずれは全通する予定と聞く。

 城跡へは弘法さんの手前を東西に走る林道を利用する。右に行けば銀山城下を通り、八反田を経由して駅家町の宜山、郷分町の境谷に至る。左に行けば「福山ふれあいランド」だ。

 道は途中まで舗装されているが、保守管理が行き届いていないためか路面の凹凸や路肩の荒れが目立つ。

 銀山城跡は、この林道が弘法の水を出発点として南に張り出した稜線を一つ迂回し、さらに眼前にのしかかってくる尾根の山頂に位置する。この辺り分かりづらいが、右、左、右、左とハンドルを回せば城の「懐」の谷間に達するはずだ。

 そこは東に口を開けた谷で、獣道のような山道があるはずだ。道があっても無くてもしゃにむに西の稜線を目指して登って行く、ここで迷うと、とんでもないところに行ってしまう。とにかくコンパスを信じて西に直進することをお勧めする。陵線上に出ればしめたものだ。南に歩いていくと城の「尾首」にぶつかる。堀切は余り明確に残っていないが「切岸」は5メートル以上あり、直進は無理だ。右に回って上を目指すと本丸に達する。本丸(主曲輪)は南北80?に達する長大な平坦地で北端には土塁が築かれ、その下が最初に取り付いた「切岸」となっている。尾根続きを遮断する堀切はやや不鮮明だが東北のなだらかな斜面は数条の「竪堀」によって防御されている。

城跡本丸に残る石組み
 本丸には中央部と南端に近いところに井戸の跡と考えられるくぼ地が残っている。中でも南端のものは切石で囲まれ、建物の基壇の可能性がある。また、その南端は下段の曲輪面の東北部に張り出して築かれ西と南の切岸は石垣造りとなっている。本丸の南には二段の平坦地が造営されている。二段目の曲輪(二の曲輪)の西側には六条の竪堀が築かれ、三段目の曲輪(三の曲輪)の西南は堀切を挟んで二段の小曲輪が築かれている。

 本丸北端から東側に稜線が突出し、尾根上にも八段の曲輪が築かれている。この曲輪群を便宜上「東の丸」と呼ぶ。ここから本丸へは二つの通路が確認できる。主道は本丸との間に築かれた大堀切を越えて本丸の東斜面を通って主稜線南端の三の曲輪に取り付く道で、曲輪に入るところは外枡形の形態をとっている。

 東の丸の南側は帯曲輪となり長さ二〇?にわたって高さ最大三?の石垣を築いている。今は林道で破壊されてしまったが、山手の「旗谷」から上がる登城道は、最初この東の丸の南側に取り付き、さらに本丸東斜面を通って三の曲輪に入っていたものと考えられ、本丸と東の丸の間の谷間には5条にわたる竪堀を築いて防備を固めている。(田口義之「新びんご今昔物語」)