茶臼山城跡と菊池氏

茶臼山城跡と菊池氏

 山名理興の時代、神辺城主の勢力は備中西南部に及んでいた。井原市芳井町芳井の土豪藤井能登入道皓玄は理興の家老であったし、理興の跡目を継いだ杉原盛重は同町河相の土豪河相氏と被官関係を結んでいる(備中川合文書)。

 当然、藤井氏の本拠芳井に至る地域、具体的には神辺平野東北部から井原市高屋町にかけての、回廊状の平野周辺には神辺城の支城と考えられる山城跡が点々と残っている。

 前回紹介した下竹田の竜王山から「支城網」は東の八尋から備中大江に至るルートと、北に突き当たって御領から備中高屋に至るルートの二つに分かれる。

 東に向かうルートには、以前紹介した大内山城跡と和名木城跡が竹尋から備中へ行く脇街道を抑えている。また、ここからは東南に上竹田から坪生、南に春日町浦上に至るルートも存在し、それぞれ鼓岡城(上竹田)、梅谷城が支城としての役割を果たしていた。

 北に突き当たって東西に回廊状に延びた平野周辺にも小規模な山城が点在している。

 先ず、竜王山から北に突き当たった山上に茶臼山城跡が存在する。備後国分寺の裏山に当り、「国分寺裏山古墳群」が存在することでも知られている。

 茶臼山一帯は、新四国八十八箇所の「お大師道」が設けられて訪ねやすい山城跡の一つだ。しかも道沿いには古墳が点在し、歴史好きにはもってこいの散策コースとなっている。

 登り口は、国分寺境内の西北隅にある。境内を出たところに六地蔵があり、ここから山に入る。所々に滑りやすいところもあるが、概ね歩きやすい山道だ。

 二百?ほど歩くと道は、北から延びた尾根に入り、展望が開けてくる。尾根上に出ると左手に横穴式石室が二つ口をあけている。九十九折をさらに進むと一つのピークに達する。よく目を凝らすと幅一〇?ほどの平地が四〇?ほど続いている。曲輪の跡だ。県の報告書を見ると、この広い曲輪の南にも帯曲輪が五段築かれているようになっているが、初心者にはその確認は難しい。

 さらに、お大師道を進むと一旦下がって次のピークに登る。山頂には石鎚神社が建ち、背後がちょっとした広場になっている。ここが茶臼山城の本丸だ。眼下に旧山陽道が通り、右手遠方に神辺黄葉山とおぼしき山並みが青く霞んでいる。本丸の背後は堀切が設けられ、西南に延びた尾根上にも曲輪跡と思われる土段が麓に向かって連続している。花崗岩の風化土壌のため遺構の残り具合は悪いが、城域は二百?四方に及ぶ中々の規模の中世山城跡である。

 城主としては、宮氏や菊池氏の名が伝わっている。

 室町時代、御領一帯は「安那東条」と呼ばれた皇室領の荘園で、宮氏が侵略を繰り返していたことが幕府の裁判記録(御前落居記録)に残っている。このことからすると、茶臼山城は宮氏の付近を侵略する要害として築かれたのであろう。

 菊池氏は神辺城主山名理興、杉原盛重の重臣である。宮氏が滅び一帯が神辺城主の支配下に入るとともに茶臼山城は神辺城の支城となり、菊池氏が城代として入城した。こう考えたい。今残る遺構のほとんどは菊池氏時代のものと見ていい。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞掲載)