要害山城跡の価値

要害山城跡の価値

 繰り返しになるが、要害山城跡は「奇跡」の一語に尽きる。

 記録から見て、この城は天文一七年(1548)に築かれ、翌年の九月には放棄された。県内1千ヵ所に及ぶ中世山城の中で、これほど残された遺構の年代がはっきり分かる例はない。

 多くの山城は築かれた年代、使用期間、廃城年代など、不明の場合がほとんどだ。また、現在残る城の遺構も廃城時のもので、それが築城時のものとは限らない。

 例を毛利氏の郡山城に取ってみよう。毛利元就の居城で有名な郡山城は、古代の高田郡の「郡家(こおりのみやけ)」に由来する古くからの地域の拠点で、南北朝時代毛利時親が一族を引き連れて下向して以来、毛利氏の拠点となった。だが、その築城時の様子は分からない。各地の例から推して、尾根を堀切で画し、削平した「曲輪」を築いただけの簡単な構造だったはずだ。

 大永三年(1523)、毛利元就が毛利家の家督を継ぎ、郡山城に入城した頃の様子は比較的詳しく分かっている。「旧本城」と呼ばれている部分がそれだ。

 旧本城は、現在の郡山山頂の本丸から、東南五百?に位置する。そこは郡山から東南に派生した尾根の先端部にあたり、城下に吉田の市街地が拡がっている。備後、安芸の国人衆の山城としては平均的な規模で、本丸は三十?四方、背後に数条の空堀をめぐらし、前方百五十?を幾段にも削平して城郭としている。

 天文九年(1540)から翌年正月にかけて行われた「郡山合戦」は、この「旧本城」を郡山城として戦われた。現在残る雄大郡山城の遺構は、この合戦後、合戦の教訓を取り入れて大拡張された後の様子を伝えるものだ。

 拡張された郡山城では城主の居館も山上にあった。『毛利家文書』などによると、元就は山頂本丸に居住して「かさ殿」と呼ばれ、嫡男隆元夫婦は本丸南方二百?の尾崎丸に居住して「尾崎殿」と呼ばれている。

 郡山城の変遷はこれだけではない。山頂本丸には高さ三?の「櫓台」が設けられ、ここには輝元の時代三層の「天守閣」が建てられていたという。つまり、天正一九年(1591)、輝元が広島城を築いて居城を移す直前には、大改造され、白壁瓦葺の近世城郭に改修されていたことが判明する。

 すなわち、毛利氏の「郡山城」といっても、元就以前の旧本城、元就が大改修した後の郡山城、さらには輝元によって近世城郭に改修された郡山城と、少なくとも3期に区分出来るわけで、当然のことながら、現在残る遺構のほとんどは輝元時代のものと考えなければならない。

 国人の居城クラスの山城は、郡山城と同じような改修を経て、今日に至っている。要害山城跡のように、天文一七年という特定の年代に築かれたことが判明し、直後に放棄され、今日まで手が加えられていない、というのは大変まれな例なのである。

 また、遺構の残存状況が極めて良好であることも、要害山城跡の価値を高めている。

 土塁・空堀・枡形すべて「土造り」の城ではあるが、天神社からの登山道によって一部城壁が壊されているのみで、他はほとんど完全に保存されている。このすばらしい山城跡が史跡として保存され、後世に伝えられることを願って止まない。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)