要害山城と平賀隆宗

要害山城と平賀隆宗

 40年近く山城跡を歩いていると、印象に残った山城と、ほとんど忘れてしまった山城がある。

 強烈な印象が残っているのは、やはり初めて山城というものに出会った山城跡だ。

 記憶をたどってみると、私がはじめて戦国時代の山城に登ったのは中学3年の夏だと思う。

 その頃、郷土史に関心を持ち始めた私は、『福山市史』上巻をバイブルのように崇め、むさぼるように読んだ。中でも、故村上正名氏が執筆された「第二編古代」の「芦田川流域の古墳群」は、暗記するくらい繰り返して読み、友人を誘っては古墳や遺跡を訪ねた。

 同書で紹介された古墳の中で特に私の気を引いたのは神辺町徳田の「要害山古墳」であった。

 村上氏は言う、「要害山は中世の城で、土塁をめぐらし、枡形などのある遺構であるが、城跡の平面上に埴輪円筒列があり…」

 それまで埴輪など触ったことも見たことも無かった私は、現地を訪ねたくてたまらず、夏だったと思うが、友だちを誘って要害山を目指した。

 山自体は簡単に見つかった。要害山は、神辺平野のやや東よりにある独立丘で、当時使っていた地図にも載っていた。

 だがそれからが大変であった。周りをぐるぐる回ってもはっきりした上り口が無い。あとで西側の天神さんの境内から登れば簡単に登れることがわかったのだが、当時はそれを知るすべはない。

 夕暮れ近くなった頃、意を決して北側山麓から山頂を目指した。丁度北側の山林を伐採中で、材木の搬出路があり、そこから登れば山頂に行けそうに思えたのだ。道は途中からなくなった。藪こぎしながら登っていくと、突然視界が開け、落とし穴のような窪みに落ち込んだ。「空堀」であった。さらに進むと、芝で覆われた「壁」にぶつかった。「土塁」であった。

 城跡に到達した私は、夢中で壁にへばりつき「埴輪」を探した。市史に、「この円筒列の所在から見て山頂にもうけられた円墳の円頂部を切り取り、古墳の空壕を利用して、築城したもののようである」とあり、円筒埴輪列はこの土塁の外側に存在すると思ったからだ。

 残念ながら、土塁の壁面には埴輪はなかった。後でわかったことだが、埴輪は山頂本丸の西側に建つ「石鎚神社」の拝殿の下からのみ出土する。丁度この部分は、本丸の一番高所にあたり、かつて山頂に古墳が存在したことは間違いないが、市史が言うような大円墳ではなかったことが
判明した。

 要害山の山頂に城が築かれたのは、天文一七年(1548)のことであった。この頃、辺り一帯は神辺城に迫る大内毛利の連合軍と、城を守る山名理興の軍勢が激突する戦場であった。攻め手の大将は大内義隆重臣陶隆房毛利元就も隆元、元春、隆景の3人の子どもを引き連れて参陣していた。六月に入って総攻撃が決行されたが、城方の抵抗もすさまじく、城が落城する様子は無かった。

 当時、合戦は短期決戦が常識であった。兵農未分離の状況の中で長期の出陣は費用ががかさむばかりでなく、農民を陣夫役として引き連れていたため、長期の滞陣は領内の農耕の障りとなり、秋の収穫に響く恐れがあった。

 数度の総攻撃でも城が落ちないのを見た大内方は、向城を築いて平賀隆宗を入れ、軍勢のほとんどを一旦引き払う戦術に出た。城には城を築いて対抗し、長期戦で理興が参るのを待とうとしたわけだ。

 その平賀隆宗が立て籠もった向城こそ、私が生まれてはじめて訪ねた山城、要害山城跡であった。(田口義之「新びんご今昔物語」より)