備後宮氏の一族

後宮氏の一族
 備後の豪族の中で、宮氏ほどなぞとロマンに満ちた者はない。南北朝時代、彗星のごとく史上に登場したかと思うと、たちまちのうちに備中国守護職を拝領、鎌倉以来の山内須藤、和知江田の広沢衆と肩を並べる国人衆となった。だが、その全貌は歴史の闇に閉ざされている。戦国時代、宮氏は尼子に属すことが多く、毛利氏によって滅ぼされたためだ。戦国100年を生き抜いた一族もいた。有地氏や久代氏などだ。しかし、彼らも家伝の記録を後世に伝えなかった。一族の離散や火事そのほかの事情による。
 宮氏の研究は、残された断片的な記録を歴史の大河の中に如何にうまく並べるかだが、その前に各地に土着した一族を概要を頭に入れる必要がある。以下のレポートはそのあらましである。
宮下野守家
 宮氏の惣領筋の家の一つで、応仁の乱後隣国を震撼させた「備後両宮」の一方である。南北朝時代の宮平太郎盛重を祖とする家で、師盛・満盛・満重・元盛・教元・政盛・親忠と続き、天文一〇年(一五四一)八月に滅亡した。歴代室町幕府に仕え、政盛は「御供衆」という守護並の格式を持っていた。本来の本拠は奴賀郡東條周辺であったが、新市周辺にも勢力を持ち、同所の「柏村」で度々敵と戦っている。
宮上野介家
 「備後両宮」の一方で、南北朝時代の宮兼信を初祖とする。惣領職を下野守家と争い、同家と対立することも多かった。歴代の詳細は不明だが、兼信の後、氏信、満信、教信、政信、実信と続くようだ。中でも政信は若狭守と称し、応仁の乱では西軍方の有力武将として活躍した。本拠は神辺平野を占めた石成庄内に置き、宗祇の「下草」に城峰高き宮若狭守の館「甲城」にて、と出てくる神辺町西中条の今大山城(遍照寺山)と考えられる。
宮久代氏
 宮兼信の子孫の一人、宮次郎右衛門尉氏兼の系統である「宮彦次郎家」の戦国期の姿と考えられ、天文一〇年の宮下野守家の滅亡後、同家の遺領を切り取って備後の有力国衆となった。高盛・興盛・景盛・知盛・広尚と続き、東條五品岳城と西條大富山城を本拠としたことから「西城、東城」の地名が生まれたことは良く知られている。
宮有地氏
 この家も宮上野介家の一門で、天文永禄年間の当主隆信が初め「宮若狭守隆信」と称していることから、或いはこの家が上野介家の正当な後継者かも知れない。天文一七年「宮次郎左衛門尉要害」を大内氏によって攻め落とされ、以後大内・毛利氏に従った。隆信の子民部少輔元盛が築いた相方城は総石垣作りの山城として有名である。
小奴可
 庄原市東城町小奴可を本拠とした宮氏で、初め下野守家の被官であったが同家の滅亡後、毛利氏の家臣となった。所領を宮久代氏に奪われ、その返還を毛利氏に嘆願したことが知られ、毛利氏は宮久代氏を牽制するため、この家を下野守家断絶後、同家の正当な後継者として扱っている。
宮東氏
 庄原市西城町八鳥を本拠とした宮氏で、宮久代氏の家臣として知られているが、室町期の棟札に「宮東」とあることから、宮氏の一門である。
宮高氏
 庄原市高町一帯を本拠とした宮氏で「山内首藤家文書」に「宮高方知行分高郷」とあり、在名をとって「高氏」を称したことがわかる。
宮豊松氏
 神石高原町豊松を名字の地とした宮氏で、南北朝時代から室町時代初期にかけて、甲奴郡の田総長井氏の所領を度々押領したことが「田総文書」に見える。戦国時代、豊松地方で活躍した上村氏、有木氏は宮氏の一門とする資料があって、或いは宮豊松氏の後裔かも知れない。
宮高光氏
 康正二年(一四五六)の「造内裏段銭並国役引付」に一貫文宮五郎左衛門殿 備後国神石郡高光郷段銭とあって、神石郡高光(神石高原町)に土着した宮氏が居たことがわかる。五郎左衛門家は室町幕府の奉公衆として見え、戦国期になって「高光氏」として登場する。本拠は高光の馬場城で、清丸八幡を氏神とし、安楽寺菩提寺として、小規模ながらも国人領主として付近に勢力を持った。
宮高尾氏
 神石高原町の福永を本拠とした宮氏で、天文年間、高尾中務大輔は初め尼子氏に味方し、後大内・毛利陣営に属し、尼子の軍勢と戦った。居城は呉ケ峠北方の高尾城である。
黒岩城の宮氏
 神石高原町永野の黒岩城を本拠とした宮氏で、天文年間、宮久代氏と連合して宮高光氏と度々干戈を交えた。最後の当主は少輔三郎元親(古城記に言う庄之三郎元近である)。天正年間、元親は家中の紛争で城を出て、宍戸氏の軍勢が黒岩城を接収し、滅亡した。
宮法成寺氏
 福山市駅家町の法成寺を本拠とした宮氏で、応仁の乱頃から姿を見せ、天文年間には、宮上総介、宮上野介と共に尼子氏に従ったことが石山本願寺の証如上人の日記「天文日記」に見える。天文十九年(一五五〇)大内氏に攻められて滅亡した。同所の掛迫城や小井城が同氏に関連した城館と考えられる。
日野氏
 戦国時代、伯耆日野郡は山名氏の一族山名摂津守藤幸の所領であったが、尼子に味方したため、毛利氏の後援を得た宮久代氏が居城を攻め落とし、景盛の次男景幸がその跡を継承した。これが日野宮氏である。日野宮氏は本家の宮久代氏が広尚の代に断絶した後も存続し、江戸時代、長州藩の一五〇〇石取の家臣として藩政に参画した。(田口義之