*[古城探訪]風雲の神辺
山名理興の登場(その3)
 確実な史料から見て、山名理興は、天文元年(一五三一)神辺城城主となり、備後安那・深津両郡を支配した。
 とすると、問題になるのは、従来の「通説」との関係だ。

 『福山市史』は理興の出自について、次のように述べている。
「杉原理興の出自については異説もあるが、大体山手杉原氏の出と見るべきであろう(略)為平の後裔である匡信は沼隈郡山手の銀山城に拠っており、その子に理興が現れるのである。理興はこのように杉原氏の支流から出て風雲に乗じて神辺城を占拠し、備後国南部に君臨することとなった」


神辺城址の現状

また、同書は「山名忠勝の敗北」として、惣領家を排除して神辺城主となった尼子方の山名忠勝に対して、「大内義隆は天文七年(一五三八)七月山手の銀山城主杉原理興をつかわして神辺城を攻撃し、これを攻め落としてかわって理興を神辺城主の付けたのである。」と理興が神辺城主となった経緯を紹介し、さらに「理興は神辺城主となると山名氏を名乗った。(略)かれが山名氏を名乗ったのはその妻が山名豊清の娘であったこと、その他山名氏との因縁に拠ったと思われるが、一つには備後守護の伝統を受け継ごうとする抱負の表明であったに違いない」と述べている。

 要するに、理興は山手銀山城の杉原氏の出身であって、山名忠勝を追い落として神辺城主となり、「山名」を名乗ったと言うのである。

 だが、この説は木下和司氏が「神辺合戦と山名理興」(続山城探訪)で述べているように致命的な欠陥がある。それは理興が「杉原」氏を称した良質な史料が全くないのに対して、先に述べたように理興の活躍年代は、通説が神辺城主となったとする天文七年より7年古い天文元年にさかのぼるのである。

 理興を「杉原理興」と表記したのは、江戸中期に著された毛利系の軍記物語からである。『安西軍策』は、「備後国神辺城合戦事」で「天文十七年ノ夏備後国神辺ノ城主杉原宮内少輔理興退治の為」と書き、続けて著された『陰徳太平記』も「ここに備後国神辺ノ城主杉原宮内少輔理興というものあり」として神辺合戦を紹介した。

 特に『陰徳太平記』は元禄八年(一六九五)に刊行され、大きな影響力を発揮し、存在しないはずの「杉原理興」があたかも存在したかのように広く流布された。以後、『福山市史』に到るまで、理興が杉原氏の出身であることが定説となった。

 「杉原理興」説は、元を正せば、銀山城主の後裔である山手杉原氏がその系譜に、盛重の父として「豊後守理興」を入れ、後の識者がこの理興を「山名理興」と即断し、著書に取り入れたためである。たまたま豊後守の名前が「理興」だったのか、或いは盛重が山名理興の跡目を継ぎ、神辺城主となったことから理興を盛重の父としたのかはわからない。

 だが、盛重と理興に血縁関係がなかったのは事実である。盛重は理興の末席の家老だったと伝わっているし、父と考えられる「杉原豊後守」も神辺城に出仕する理興の宿老の一人であった(『大日本古文書』所収「浦家文書」)。(田口義之「新備後今昔物語」大陽新聞連載)