風雲の神辺城(2)

風雲の神辺
山名理興の登場(その二) 

室町時代、国内の鋳物師職の任命権を持っていたのは守護であった。天文元年(一五三一)十二月の時点で理興が備後守護の職権を行使していたのは間違いない。

神辺城址本丸跡
 天文元年、理興が山名家の家督を相続していたことを傍証する資料は他にもある。以前から度々引用してきた瑞源院本『水野記』がそれだ。この書物は元禄十一年(一六九八)の水野家改易後、その遺臣であった吉田彦兵衛が編纂した水野氏五代の伝記資料集で、中に「寛永寺社記」が収められている。

 「寛永寺社記」は、寛永十六年(一六三九)三月、水野氏が領内の寺社に命じて、それぞれの寺社の由緒、寺領の有無などを上申させた文書の抄録で、極めて史料上の価値が高いものである。

 山名理興に関する記載は、旧安那、深津二郡に及んでおり、このこと自体、理興の勢力圏を示すものとして注目されるが、看過できないのは次の記述だ。

深津郡坪生村(福山市坪生町) 神森大明神
古来社領十石十貫、天文元壬辰年陶山又二郎山名理興等この辺りの地頭として五十貫を以て社領に寄せる

また、同浦上村(福山市春日町浦上)八幡と同宇山村(同春日町宇山)八幡のところにも
天文元壬辰年山名理興の代に到って社領有(浦上八幡)
天文元壬辰年山名理興二十貫先例に任せて之を寄す(宇山八幡)
とある。

私が注目したいのは、これら一連の記載にある「山名理興」の名と「天文元年(一五三一)」という年代である。

 実は「山名理興」という名前は、現代の我々は自明のこととして使っているが、江戸時代にはほとんど知られていなかった。では江戸時代山名理興はどんな名前で紹介されていたかと言うと、一般には「忠興」が実名と考えられていた。特に元禄年間『陰徳太平記』が刊行されて以後は「理興」の漢字を使った郷土史書は皆無であった。

神辺城址からの展望
 ここで「山名理興」とあるのは、原史料に「理興」の名があった事を示している。そして、その原史料とはおそらく理興の「寄進状」のような権利関係を示したものであったはずだ。寛永寺社記の性格から、各寺社にとって最大の関心事は、寺社領を水野氏が認めてくれるかどうかであったからだ。

 天文元年のこれら一連の記載の原史料が、山名理興の「寄進状」だったとすると、次に注目されるのが、「天文元年(一五三一)」という年代である。

 一般に、寺社領の寄進、安堵は大名領主の代替わり、或いは領主の交代によって行われたものである。
領主の交代に際して、改めて「継ぎ目安堵」を受けなければ、それらの土地は別人に宛がわれるかもしれない。また、新しく領主になったものは領内の寺社を保護する責務があった。

 これらのことから山名理興にとって天文元年が重要な意味を持っていたことは間違いない。そして、それは理興が神辺城主となった年代を示していると考えるのが普通であろう。