風雲の神辺
山名理興の登場

 全盛期の神辺城には、山城部分だけでなく、麓の平地部分にも城郭が築かれていたようだ。江戸時代の地誌には、現天別豊姫神社境内東側に「杉原屋敷」と呼ばれた城主の居館があったと伝え、神辺の街中にも「外堀」の跡があり、埋め立てられて「新田」に造成されたという。現に最近神社東側の宅地造成地が発掘され、「庭園」跡が出土して話題となった。

神辺黄葉山遠景
 天文年間(1532〜55)の「神辺合戦」の関連文書にも「神辺固屋口」で合戦があったことが述べられており、これらのことから、城下部分にも相当な施設が設けられていたことは確実だ。私は廃城直前の神辺城は、伊予松山城のような雄姿を山陽道上に曝していたと思っている。

 ところで、「神辺城」は史上存在しないと主張される郷土史家がいる。奇妙に思われる方も居られるだろうが、事実である。神辺城が存在した時代の記録を見ると、「神辺」は通称地名であって、城名として出てくるのは「村尾城」である。「湯浅文書」から一例を挙げておこう。

大内義隆書状】
村尾城に至り、青景越後守を差し籠め候 毎事相談あり、馳走肝要に候 猶隆満隆言申すべく候なり 恐々謹言
(天文一八)十一月三日 義隆
       湯浅五郎次郎殿

 神辺城を攻め落とした大内義隆は、同城を大内氏の直轄城とし、重臣の青景越後守隆著(たかあき)を城代として派遣した。「湯浅殿は万事青景と相談して私のために力を尽くして欲しい」と言うのが内容だ。湯浅氏は世羅郡の城主だが、芸備の主要な城主に同文の書状が出されたと見ていい。この書状には神辺城は「村尾城」と表記されている。「村尾」の名は以後天正十一年(1583)まで各種の記録に散見する、当時、山上の城郭部分は「村尾城」と呼ばれていたと見ていいだろう。

 山名丈休が築城した神辺城(本来は「村尾城」と表記すべきであるが紛らわしいのでこれで通す)には、以後天文年間の山名理興まで城主の名はさだかでない。

同上 近景
 神辺城主として一時は備後半国に号令した山名理興は、通説では山手杉原氏の出身で、天文七年(1538)七月、大内義隆の命を受け、神辺城に拠っていた尼子方の山名忠勝(氏政とも云う)を追い落として神辺城主となり、「山名理興」と号したことになっている。

 だが、この説を裏付ける確実な史料はない。却って天文七年以前に既に山名理興が活躍していたことを証する記録が残っている。室町戦国時代、日本国内の「鋳物師」を支配した真継家に残された次の文書がそれだ。

【山名理興書状】
丹下神四郎儀、委細承り候 其の意を得候 此輪(鐘か)の儀、大工申し付くべく候 恐々謹言
十二月一日 宮内少輔
理興(花押)
 和智左衛門尉殿

年号は無いが、宛所に和智左衛門尉(豊郷)とあるところから、天文元年(1531)十一月十六日付和智豊郷判物を受けて出された書状で、同じく天文元年のものと見て間違いない。