神辺、謎の古城山

神辺、謎の古城山
 神辺宿の散策は楽しいものだ。古い町並の散策は電車かバスを利用するのがいい。車で行ったのでは味わえない趣がある。

 JR福沿線に乗って10分、電車は神辺駅に着く。駅前通りは50?ほどで車両の往来激しい国道313号線に出る。ここで国道と交差したもう一本の道が左手に出てくるのに気づく、旧西国往還、所謂「旧山陽道」だ。

 旧山陽道は、神辺宿に入ると屈曲して進む。神辺駅前から左に旧街道に入ると、先ず右折して本陣のあるメインストリートに入り、突き当たり(ここでは東に)で左折、さらに右折して菅茶山の廉塾のある通りにでる。この辺りを「七日市」という。因みに本陣のある辺りは「三日市」だ。
 江戸時代の宿場町にも関わらず、街道が屈曲しているのは、この地が神辺城の「城下町」として誕生したためだ。各地の城下町を訪ねると、大抵通りは見通せなくなっている。敵が攻め寄せてきた時の防禦のためだ。

 神辺の城は、町並の南に聳える「黄葉山」にあった。最後の城主が福山城を築いた水野勝成で、櫓や城門などの建物や石垣まで福山城に持って行ったため、現地に残る城の遺構はほとんどない。

 このように、福山城が築かれてからは、黄葉山にあった神辺城は、江戸時代の初め以来「古城」だったはずだが、神辺には黄葉山以外にもう一つ「古城」がある、それが地名にもなっている古城山だ。

西から見た古城山
 「もう一つ」の「古城」は、神辺宿の東のはずれ、大字「平野」との境い目辺りに存在する。神辺から東に旧山陽道は、この古城山の南を通り、高屋川を渡って国分寺から岡山県井原市高屋町の「高屋宿」に通じる。

 さて、問題はこの「古城山」と神辺黄葉山城の関係だ。

 古城山と黄葉山の城を本城と出城の関係と理解することも可能だろう。事実、『西備名区』安那郡河北村のところには、「古城山、この山の半ばより平野村にかかれり」として、城主として上利右近、長田左京亮の名前を挙げている。

 上利氏のことは判然としないが、長田左京亮は『陰徳太平記』にも登場する神辺城主山名理興、同杉原盛重の家臣である。
 だが、現地に立ってみると、ここに神辺城の出城が築かれた理由が判然としない。麓からの高さ20?ほどの小山に過ぎず、しかも神辺城の本丸からは眼下に見下ろすことが出来る。ここに守兵を置いても無意味にしか思えない。

城跡に建つ八幡神社
 それよりも注目したいのは、古城山の北方に「古市」の地名があることだ。「古市」は神辺宿の「三日市」「七日市」に対応し、より古く開かれた「市」を意味しよう。そうすると、三日市・七日市が神辺黄葉山城の築城と共に開かれた市とすれば、古市はその前の古城山に城があった頃の市ではなかったか、と言う仮説が誕生する。つまり、古城山は神辺黄葉山城の出城などではなく、黄葉山に城が築かれる前の「神辺城」であった可能性が浮かび上がって来るのだ。