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鼓ヶ岡城と三吉覚弁
神辺町東部の上下竹田から八尋にかけての一帯は、中世「高富庄」と呼ばれる荘園であった。荘園領主は判然としない。
典型的な「谷田」地帯で、櫛の歯のように開けた小さな谷あいには、大抵奥まったところに溜池があり、谷の出口にかけて中世以来の棚田が並んでいる。今でも「泰砂子」「内砂子」と「迫」地名で呼ばれる小さな谷あいは中世武士が好んで館を構えたところだ。
南北朝時代の武将として知られる三吉少納言房覚弁の本拠であった高富庄内「鼓」もそうした谷あいの一つであった。
鼓が丘城址、ほとんど遺構は残っていない
この地に本拠を置いた三吉鼓氏は近江源氏佐々木氏の流れを汲む武門だと伝えている。三吉鼓氏の後裔が伝えた系図によると、有名な佐々木定綱・高綱兄弟の末弟秀綱が鎌倉幕府から備後国三吉(三次市畠敷)の地頭職を拝領して来住、同所に比叡尾山城を築いて本拠とし、在名を取って「三吉氏」を称したという。ところが、その子秀方は承久の乱で後鳥羽上皇に味方して京都で討死、遺児高元は親類を頼って備前児島に落ち延びた。覚弁は高元の曾孫にあたり、南北朝の動乱に際し、足利尊氏に味方して再び備後国で所領を獲得する機会に恵まれた。
すなわち、父秀清が建武三年(1336)五月の湊川合戦の戦功によって備後国重永村の地頭職を拝領したのを始めとして、観応二年(1351)二月、覚弁が備後国杭庄泉村の地頭職を、延文二年(1357)には覚弁の跡を継いだ弟の秀盛が同じく高富庄竹田村の地頭職を獲得して、三吉氏はここに再び備後の国人として雄飛することとなった。
城址にある鼓観音堂
将軍方としての覚弁の活躍は目覚しいものであった。「三吉鼓家文書」によると、観応二年八月十三日石成上下城(御幸町)を、同月二二日には尾道城を、それぞれ攻めて備後守護岩松頼宥から感状を与えられたのを始めとし、同年十月には頼宥の居城勝戸城に攻め寄せた南朝方の軍勢を同城に籠って退散させ、さらには敵を追って備中の荏原城(井原市)まで攻め寄せた。
しかし、覚弁の獅子奮迅の活躍にも関わらず、三吉鼓氏の在地領主化は上手く進展しなかったようだ。
文和四年(1355)正月、覚弁は出陣に際して、実子と考えられる「さやいろこくら」に「置文」を残して後事を託した。それによると、覚弁の遺産は「鼓の田畠山林」「泉村地頭職」「惣領よりの譲状」であって、文中で繰り返して「惣領殿の親しき扶持」を念願している。
堂内の観音様、鎌倉期の作と言う
この置文を読む限り、覚弁は三吉氏の庶子として活動し、遂には「自立」を果たすことはなかったようだ。しかも唯一つのまとまった所領「杭庄泉村地頭職」も、在地の悪党公文十郎一族の乱妨によって支配出来ず、彼の手を離れている。
結局、覚弁に残された「鼓の田畠」も子の「さやいろこくら」に渡ることはなかった。彼の跡は実弟の秀盛が継ぎ、子孫は上竹田鼓谷に居を構える地侍として近世を迎えるのである。
覚弁の居城と伝える「鼓ヶ岡」には城跡らしい遺構は残っていない。ここに立つと、覚弁の「合戦に罷りで候上、老生不定の習いの事にて候間、此の如く申し置き候なり」という置文の言葉と共に、中世という時代の厳しさが実感として胸に迫ってくる。