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明顕山城と三吉丹後守神辺町下竹田
国道482号線や主要地方道井原福山港線が整備されたため、今ではあまり利用しなくなったが、蔵王の市民病院北から山越えに神辺町下竹田へ行く県道は、かつては井原方面への近道としてよく利用したものである。
国道182号線を、高速の高架下から右折して峠を越えると、春日町の宇山だ。民家は道沿いには少ないが、峠を越えたところにある溜池の土手から西に入ると、道沿いに崩れかかった土塀が残り、古い民家が軒を連ねている。今は廃村同然になった宇山だが、歴史は古く、かつて江戸以前、備中方面からの人や物は、この村を通って深津、沼隈に流れた。草戸千軒遺跡から出土した数少ない地名表記のある木簡に「宇山」があるのだから驚きだ。
西から見た明顕山城跡
道は宇山から緩やかに降りながら、神辺町下竹田に入る。平野に出る直前、右手の住宅越しに低い丘陵が道と平行して北に伸び、やがて竹尋の平野が広がる。今回紹介する明顕山城は、この丘陵の先端部に残る中世城館跡である。あえて山城と表記しなかったのは、山城というよりも、丘の上に築かれた居館跡といった方がいいからだ。こういう城館跡を「土居形式」の山城、或いは「土居城」という。
城跡に古い社があり、参道を登るとわずか数分で曲輪跡に達する。南北50メートル、東西30?の曲輪は生活空間として十分な広さを持っている。背後の尾根続きには一条の空堀がはっきりと残っている。正に典型的な土居城の跡である。
土居城は、鎌倉以来の古い城館の形式で、鎌倉の御家人の本拠は、ほとんどこうした土居城の構造を持っている。平地に築かれると「方形居館」となる。
中世武士は、土居城を本拠に地域を開拓して行った。そして、中でも有力なものは土居城を拠点に国人領主制を展開して地域の支配者となった。この辺りでは宮、杉原氏がその代表だ。彼らは戦国期に入ると土居城を棄て、領内の要所に山城を築いて本拠とした。銀山城(山手町)や大谷城(芦田町)などがそれだ。だが、中世武士の中には、村落の小さな領主のままで戦国を迎えるものもいた。いや大部分は村落領主のままで近世を迎えたと行った方が良いだろう。彼らは鎌倉以来の土居城をそのまま居館として使った。これが各地に残る土居城の歴史だ。そして、彼らは江戸時代を迎えると帰農して庄屋や組頭などの村役人となった。
下竹田の明顕山城のある場所を字「城之端」という。鎌倉以来の古い土居城と見て良いだろう。
「備後古城記」を紐解くと、安那郡下竹田村のところに、
「ヲヲチ山 皆内左馬助
三吉丹後守 天正年中の人。筑前守とも。杉原幕下」
とある。
「ヲヲチ山」とあるのは以前紹介した「大内山城」のことで、明顕山城主と伝わるのは三吉丹後守である。
丹後守の子孫は慶長五年(1600)の関が原合戦後帰農して庄屋となり、家伝文書を今日まで伝えた。それによると、丹後守は元又右衛門尉といい、天正十一年(1583)四月、杉原景盛から「丹後守」の受領名を許されたこと。杉原氏没落後は毛利氏に仕えたことが分り、中世武士がしぶとく近世の豪農として生き延びていく有様を今に伝える、典型的な例となっている。