土居城と八頭城 神石郡神石高原町

 山野町の田原城と串丸城は、高梁川の支流、小田川の上流「猿鳴峡」の断崖上に築かれた険阻な山城であった。
 一般の観光客は、キャンプ場から紅葉橋辺りまで足を伸ばすと、そのままユーターンして帰ってしまうが、渓谷はまだ二キロ以上続き、行き止まりかと思いきや、再び人里が現れる。神石高原町の「上野」だ。川はそこからさらに10キロ上流の、神石高原町の小畠から「上」まで遡るのだから、高梁川水系の水源の豊富さには今更ながら驚かされる。

 余談だが、この川の水源は神石高原町の高蓋辺りにあり、峠を越えた辺りから西に流れる「矢多田川」は上下の南で南流して芦田川と合流する。神石高原町の南部が東西の水系を分ける分水嶺になるわけだ。

 猿鳴峡の北に位置する上野にも山城跡が二箇所ほど知られている、ここまで来たのだからついでに紹介しておこう。

崩れかかった山野の辻堂
 山野から神石高原町の小吹に出る県道加茂油木線は山野の田原から約7キロ峡谷の中を走り、青滝で神石郡に入る。以前ここには数軒の家があり、店もあったのだが、果たして今もあるかどうか…。

 上野に入って最初に目に入るのは「八頭城」だ。峡谷を出ても道は断崖の下を縫うように進む。神石郡に入って二つ目の大きなカーブをまわった辺りで、前方に黒々とした山塊が迫り、道は再び大きく左にカーブして上野の中心集落「矢名瀬」に入る。この黒々とした山塊の小田川に望む断崖上に築かれたのが八頭城だ。

 険しい山城に見えるが、東の「上野谷」から行くとあっけなく城の麓に達する。車から降りて、雑木の中をしばらく登ると段々になった城跡に到達する。以前の調査で十?四方の曲輪跡が確認されたが、それ以外にやや平坦な場所が数箇所あるのみで、中世の山城跡というにはやや躊躇するような場所だ。元弘の変(一三三一)で桜山氏に従って南朝方の旗を揚げた江草氏の築いた城というから、伝承が正しいとすれば、南北朝時代の城跡として稀有な例となる。

 八頭城下を過ぎると、やや広い平地が現れ、正面に「土居城」の姿が見えてくる。
 土居城は小田川北岸の東から西に突出した尾根を利用して築かれた典型的な戦国期の山城である。麓から見上げると山頂近くに人家がある。勾配のきつい道だが、この道を行けば城跡の直ぐ近くまで車で行ける。言うまでもないことだが、その場合は家の人に一言挨拶するのが礼儀だろう。

 城は西面した尾根を2重の空堀で断ち切り、3つの曲輪を東西に築き、西の「尾崎」に一重の空堀を築いただけの簡単な構造だが、随所に築城の苦心の跡を見ることができる。東の曲輪と西の曲輪の間は自然の山で岩が露出している。ここに曲輪を築かなかったのは、一種の「蔀」として利用するためだし、東の空堀は途中で直角に屈曲している。これなども寡兵で敵を防ぐ工夫の一つだろう。

 城主として、粟飯原氏や田辺氏の名前を伝えている。いずれも備北の有力国人久代宮氏の家臣と伝え、同氏の勢力がこの辺りにも及んだことを示している。